天和二年銘手水鉢
てんなにねんめいちょうずばち
概要
天和二年銘手水鉢
てんなにねんめいちょうずばち
東京都
江戸時代前期/1682年
この手水鉢は、安山岩(伊豆石)でつくられ、全体としてどっしりとした重厚感を与えるものである。また、底部は直線状であり、江戸時代前期の様式である。
正面には開花した大ぶりの蓮華と、その左右に未開の葉を厚く浮彫りしてあり、左右ともに半ば開いた蓮華と葉を同じく厚く浮彫りしてある。いずれも雄渾な図柄で、江戸時代前期の石造品の特色を示している。
一般に江戸では元禄年間(1688~1703)以前の石造遺物は少ないといわれており、江戸郊外においてはさらに稀少となる。
高さ 56.9㎝ 幅上部 82.3㎝ 下部 75.5㎝
奥行上部 48.4㎝ 下部 29.9㎝
1基
東京都杉並区上荻二丁目1番3号
光明院境内
杉並区指定
指定年月日:20120223
宗教法人光明院(代表役員 田代弘興)
有形文化財(美術工芸品)
本資料は、手水鉢としては杉並区内では最古の紀年銘を持つもので、銘文には「萩(ママ)窪村」(荻窪村)の村名が認められ、造立の主旨として元心という人物の菩提の為であること、願主、石工、大工、当時住職の11名の名が記載されている。願主はそれぞれ独立して一家を構えた本百姓であったと推測される。また、大工名があることは、この手水鉢がの造立と同時に水盤舎も建立されたことを示している。石工は江戸市中木挽町の者で、この手水鉢の出来具合からみても、当時一流の優品と考えられる。
これらのことから、この手水鉢の造立に当っての全体の費用はかなりの額に上ったであろうと推測され、これを喜捨した富裕な人達は、荻窪村の中心的百姓であったとみられる。
銘文にみえる「當寺朝善」は、光明院歴住墓地に、朝善の墓石(元禄3年正月6日没)があることから、光明院住職と考えられる。本資料は、天保11年(1840)の火災によって過去の記録を消失してしまい、不明な部分の多い、江戸時代前期の光明院の寺史の上でも重要なものといえる。
いずれにしても、手水鉢としては区内最古の文化財であるとともに、石造品としても美術的価値の高い優品と考えられる。