鞠智城跡
きくちじょうあと
概要
鞠智城跡は、有明海に注ぐ菊池川の河口から北東に約27km内陸に入った菊池川中流域、鹿本郡菊鹿町米原にある標高160m前後の丘陵地に位置する。北は福岡県境に連なる山々を望み、南は菊池川により形成された平野が広がっている。
鞠智城は東アジア情勢が緊迫の度を増した7世紀中葉以降に、大宰府防衛のため大和朝廷によって築かれた朝鮮式山城のひとつと考えられ、『続日本紀』文武天皇2年(698)の「大宰府をして、大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」とある修繕記事を初見とし、降って『日本文徳天皇実録』天安2年(858)に「菊池城院兵庫の鼓自ら鳴る」「菊池城の不動倉十一宇火」、『日本三代実録』元慶3年(879)に「菊池城院の兵庫の戸自ら鳴る」の怪異記事及び火災記事が国史に散見する。
城跡は菊鹿町米原の長者原地区を中心とする総延長約3.5kmの土塁線や急峻な崖線で囲まれた、南北約1.2km、東西約1km、面積約64haの規模を有する。昭和42年度から始められた発掘調査によって、現在までに掘立柱建物・礎石建物、鼓楼ともいわれている八角形建物跡2棟、貯水池跡、貯木場跡等の遺構のほか、南側の崖面に3箇所(深迫・堀切・池の尾)で門跡が確認されている。遺構変遷としては、現在のところ、第I期(7世紀中葉から7世紀末)、第II期(7世紀末から8世紀後半)、第III期(8世紀末から廃絶まで)の大きく三時期に区分して考えられている。出土遺物として、「秦人忍□五斗」と墨書された米の荷札と考えられる木簡、百済系の単弁八葉蓮華文軒丸瓦等注目すべきものが出土し、このほか、炭化米や礎石表面の火災痕跡など国史の記述と合致するような遺構、遺物も見つかっている。
熊本県は昭和34年に県史跡に指定して保護を講じるとともに、継続的に発掘調査を行い、公有地化事業及び歴史公園としての整備事業を平成6年度から進めている。
このように、鞠智城跡は、7世紀代の東アジアを中心とする国際関係緊迫化の中で北部九州の防衛拠点として大和朝廷により造営されたものとして、大野城、基肄城と並び重要な遺跡であり、かつ遺構等の保存状況も良好である。よって史跡に指定してその保護を図ろうとするものである。