陣が峯城跡
じんがみねじょうあと
概要
陣が峯城跡は、福島県西部、会津盆地北西部に位置する平安末期、12世紀に営まれた城館跡である。この地は阿賀(野)川が新潟県に抜ける盆地の出入り口にあたり、城跡は盆地を東に一望する比高約20mの台地縁辺、標高約195mに立地する。地元ではこれを「ジョウノシロ」と呼称しているが、近世にはその名が知られ、会津藩が文化6年(1809)に編纂した『新編会津風土記』に、越後の豪族城四郎長茂が築城した二十八館のうちの一つであること、焼け米が出土すること、地元では長茂の居館が焼き討ちされたと伝えていることなどが記されている。
会津坂下町教育委員会では遺跡の重要性に鑑み、平成14年度から3カ年にわたり内容確認のための発掘調査を行った。城跡は平面台形状を呈し、段丘崖である東辺をのぞく周囲は二重に堀を巡らす。内部は東西約110m、南北約175mの広さで、東に緩く傾斜するがおおむね平坦である。西辺部のみに高さ約2.5mの土塁が伴う。堀は自然の地形を利用したものと推定されるが、二本が平行し堀の間は土塁状をなすことから、人工的に整形したことが窺える。堀の規模は南北辺が西辺より大きく、幅20m、深さ15mほどもある。郭内の中央やや北よりの地点と東辺部において掘立柱建物が確認された。前者では重複した複数の建物があり、いずれも桁行五間以上の比較的大型の建物である。東辺部では多量の炭化した遺物とともに掘立柱建物が検出された。出土品は中国・朝鮮半島産を含む陶磁器類、木製品、金属製品など多様である。陶磁器類では、中国産の白磁の四耳壺4個体のほか水注、碗・皿、青白磁、高麗青磁碗など奢侈品が目立つ。炭化した椀・盤・挽物容器、飯類、穀豆類などや和鏡・錘、多様な鉄鏃などは当時の食生活や遺跡の性格を考える上で重要である。また、炭化木製品や被熱した陶磁器が多く、火災に遭って廃絶したことがうかがえる。これらの遺物から城跡は12世紀前半代に築かれその後半のうちに廃絶したものと思われる。
12世紀の城館遺跡は類例がきわめて乏しいが、陣が峯城跡にみられる立地と二重の堀を巡らす構造は、同じ時期の奥州藤原氏の拠点「平泉館」とされている柳之御所遺跡と共通し、会津地方における有力な政治的拠点である城館と考えられる。この地域は、摂関家領蜷河荘に属していたが、城氏が勢力基盤をもっていた越後と阿賀野川を通じて直結する地理的条件をもっていたこと、九条兼実の日記『玉葉』が城四郎長茂が木曽義仲に敗れて「藍津之城」に逃れたと伝え城氏との関係が強いと考えられることから、この城が伝承どおり城氏に関係している可能性もある。
このように陣が峯城跡は出土遺物が豊富で城館の具体的内容が把握され、後世に再利用されることなく保存状況も極めて良好である。この近辺には、雷神山経塚や庭園遺構を伴う薬王寺遺跡、壮大な拝殿「長床」をもつ新宮熊野神社など、平安末期にさかのぼる文化財があり、城を取り巻く地域の状況が知られることも特筆できる。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。