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十三湊遺跡

とさみなといせき

概要

十三湊遺跡

とさみなといせき

史跡 / 安土・桃山 / 室町 / 鎌倉 / 南北朝 / 東北 / 青森県

青森県

中世

五所川原市

指定年月日:20050714
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

十三湊遺跡は、本州最北端の津軽半島の日本海側ほぼ中央に所在し、岩木川河口に形成された潟湖、十三湖の西岸に位置する。戦国期に成立したと考えられる『廻船式目』に三津七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」とみえ、中世北日本の重要港湾であったことがうかがえる。蝦夷管領を務めた津軽の豪族安藤氏が拠点を置いて栄えたとされながら、南北朝に津波で壊滅したという伝承があり、長い間幻の港町とされてきた。しかし、平成3年度以降の国立歴史民俗博物館、市浦村及び青森県教育委員会による組織的な発掘調査の結果、13世紀初頭から15世紀後半に営まれた広大な遺跡の実態がおおよそ把握された。
十三湖は現在直接日本海に開口するが、かつては砂州の間の水路、前潟を通じてつながっていた。遺跡は前潟と十三湖に挟まれた砂州先端に立地し、規模は南北約2km、東西最大500mに及ぶ。前潟に面した西側が高く、そこに十三集落の街村が南北に立地しており、13世紀初頭の成立期の遺跡はこの中央付近で確認されている。集落東側の広大な畑地が遺跡の中心で、北西の前潟に面する地区に港湾施設、南端に伝檀林寺跡が位置している。
中心の地区は空堀を伴う東西方向の大土塁により南北に二分される。土塁北側は遺構及び遺物の内容から、領主やその関係者などの居住区と推定される。大土塁は遺跡の最盛期である14世紀後半から15世紀前葉のものであり、その北側の遺構は14世紀前半にさかのぼる。14世紀後半以降は、大土塁とほぼ同方向の柵を伴う東西道路が20から30m間隔で規則的に配置され、その間に多くの掘立柱建物・井戸、鍛冶・製銅の工房などの竪穴遺構が分布し、都市計画的な屋敷割が見られる。この地区は遺物の出土量も多く、奢侈品の陶磁器や東北地方では稀少な京都系のかわらけもまとまっており、遺跡の中心的な場であることを示唆する。この地区では、15世紀前半の火事場整理の跡と考えられる多量の被熱した礫を廃棄した遺構が多数存在する。火災により多くの施設が焼失した後、一旦復興作業が行われたと推定される。この火災は永享4年(1432)の南部氏との抗争で安藤氏が敗れた際に伴うものとの指摘もある。
土塁南側は地割から町屋の存在が推測されている。側溝を備えた南北道路と、その両側には掘立柱建物及び井戸を伴う区画があり、南辺には墓跡や畑が見られる。この地区は15世紀中葉頃、土塁北側の火災後に計画的に整備されたが、まもなく衰退したと考えられる。ここから約300mおいた南側には伝檀林寺跡がある。土塁や溝等による一辺百数十mの方形区画が東西に二つ並ぶものと考えられる。東方区画は建物や井戸などから居住空間、西方区画はさらに溝による長方形区画があって遺物が少ないことから宗教的施設と推定される。前潟に面した港湾施設は船着場に伴う遺構と推測される。汀線付近の砂地に広く礫敷が認められ、護岸用の木杭と横板、桟橋の可能性がある縄が巻付いた杭等も出土している。伝檀林寺跡、港湾施設とも時期は土塁南側とほぼ同じである。
十三湊遺跡は、中世国家の境界領域に位置するという立地条件のもと安藤氏が拠点を置いて、北日本海交通の重要港として発展、繁栄した。衰退後は遺跡地の大半は開発されることもなく非常に良好に保存され、かつ周辺には山王坊遺跡等の関連遺跡が豊富に分布し、これをとりまく十三湖や日本海の環境・景観も優れている。我が国において重要な港湾を伴う大規模な遺跡として類いまれな事例である。

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キーワード

遺跡 / 遺構 / 区画 / 建物

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