三十三間堂官衙遺跡
さんじゅうさんげんどうかんがいせき
概要
三十三間堂官衙遺跡は、阿武隈川下流南岸の丘陵上に位置する、平安時代の亘理郡家跡と推定される遺跡である。昭和61年度から63年度にかけての亘理町教育委員会及び宮城県教育委員会の4次にわたる発掘調査によって、遺跡の性格、範囲、主要遺構とその変遷が明らかになった。
亘理郡の名は、『続日本紀』養老2年5月2日条の岩城・石背両国建置記事の中に、岩城国に所属した6郡の1つとして「曰理」と見えるのが初見で、その後『続日本紀』・『日本後紀』・『日本三代実録』等の正史に散見される。『和名抄』には坂本・曰理等4郷が、『延喜式』には亘理郡の官社4座が記されているが、後者のうち安福河伯・鹿島緒名太・鹿島天足和気の3社はいずれも本遺跡の位置する丘陵縁辺に所在している。また、奥州藤原氏の祖、藤原経清は「わたりの権大夫」「亘権守」等と呼ばれており、亘理郡に所領を有していたことが推測される。遺跡は丘陵に入り込む沢筋によって、北部の官衙地域と南部の正倉地域とに大きく二分される。
官衙地域は、北と東を溝によって囲まれた東西約180メートル、南北約200メートルの規模をもつ。その中央部西寄りにはさらに東西約50メートル、南北約60メートルの区画を設けているが、この内部の区画の東・北・西の各面からは塀跡が検出されており、南側は未調査であるが土塁状の高まりとなっている。この区画内には基壇を有する建物を中心にコの字形に掘立柱建物が配置されており、国衙や城柵の政庁の遺構配置と共通するところから郡庁院に相当する区画と推測される。この郡庁院地区と東・北との溝との間にある平坦面からは、北側で6棟、東側で2棟の掘立柱建物及び礎石建物が検出されているが、これらは郡家に付属する官衙施設と考えられる。これら官衙地域の建物群はおおむね4時期の変遷が認められ、その存続時期は出土遺物から、およそ9世紀から10世紀前半と考えられる。
正倉地域には、10棟の礎石倉庫跡と、これに付属する2棟1組の掘立柱建物跡が検出されている。倉庫跡のうち2棟は礎石を完全に残し、きわめて保存状況がよい。また付属建物には、官衙地域同様4時期の変遷が認められる。これら正倉地区は一辺約150メートルの方形の溝で区画されているが、この溝の東方の沢筋に面した箇所に整地層が検出されており、東に通路を設けていたものと考えられる。
本遺跡は、郡家の基本的構成要素である郡庁院・付属官衙地域・正倉地区のほぼ全容が解明され、しかも遺構の保存状況が良好である点で貴重である。また、多くの郡家が9世紀以降急速に衰退していくのに対し、本遺跡が10世紀前半まで明確な形態を維持して存続していることは、古代の東北地方における統治機構の推移を考える上で重要である。以上の理由によって史跡として指定し、その保存を図るものである。