浦添城跡
うらぞえじょうあと
概要
浦添城は、舜天王の居城ともいい、また、英祖王統や察度王統がいずれも浦添の出といわれているところから、英祖王統や察度王統時代に築かれたともいうが、確証はない。しかし、この三王統のうちいずれかの時代に築かれたものであろう。15世紀頃の首里遷都とともに、城跡は荒廃していくが、尚真王の長子尚維衡が父の不興をかって浦添城に一時遷されたり、慶長14年(1609)、島津侵攻の際戦火にあったこと、万暦45年(1617)、尚寧王がこの城を修築して隠居したこと等が記録によって知られる。
城は字仲間から牧港にのびる琉球石灰岩丘陵の東端、標高130〜140メートルの要害の地に築かれている。その規模は、東西約380メートル、南北約60〜80メートルに及び、北は急崖をなしているが、南は緩やかな斜面となっている。城跡からは、北方は宜野湾・北谷から読谷までの街々、南方には慶良間の島々や首里・那覇の街々を通して南部の丘陵を望むことができる。
城跡は、太平洋戦争中の彼我の争奪戦で一部大きく損傷したほか、戦後の採石工事等によって、北側の一部が削り取られたりする変容がみられたため、遺構の遺存はないものと大部分の人は考えていた。しかし、昭和57・58両年度の浦添市教育委員会による発掘調査の結果、北側の崖面を除き、遺構がよく残っていることが判明した。すなわち、城跡の遺構は、13世紀末〜14世紀初頭の第1期に始まり、4ないし5時期にわたるものが重複して残っていること、ごく一部の発掘調査によっても城門石垣・石塁・建物跡・井戸等が検出されること、城への虎口は南にあるらしいこと、城の規模は各期によって相当変化していたらしいこと等が明らかになった。なお、城跡の北側には、浦添ようどれ、すなわち英祖王と尚寧王の2つの陵墓が、戦後の修復工事をへて残っている。
こうした新しい事実をふまえて、沖縄で最も著名な城の1つである浦添城跡を史跡に指定し、今後積極的に発掘調査を行って城のなりたちを究明しつつ、保存整備を図ろうとするものである。