佐敷城跡
さしきじょうあと
概要
佐敷城跡は、琉球を統一した尚巴志の居城とされる城跡である。城跡は、南城市佐敷の中城湾に臨む丘陵北側斜面に位置し、標高50メートル付近の上城跡及び美里殿遺跡、東方の苗代殿遺跡からなる。『中山世譜』・『球陽』等によれば、苗代村に居を移した尚思紹と佐敷村美里子の娘との間に生まれた尚巴志は、思紹より佐敷按司の地位を譲られ、武寧王代(1396〜1406)に島添大里按司を破って大里城を得た。15世紀初頭に中山を攻略したことを皮切りに、1416年に北山を滅ぼし、さらに南山を平定して、1429年に琉球で最初の統一王朝を樹立した。この過程において、尚思紹・尚巴志父子が根拠としたのが佐敷城と考えられている。三山統一後は廃城となったが、第二尚氏王統以降も、佐敷の地は即位前の王子が領する間切となり、後年には聞得大君加那志に就任前の王妃が佐敷按司加那志となって間切を領する等、王家の故地と位置づけられていた。
南城市(旧・佐敷町)教育委員会では、平成12年度から24年度にかけて発掘調査等を実施した。上城跡は東西約200メートル、南北約300メートルの規模で、佐敷城跡の主体部を形成し、主郭をはじめ中枢となる曲輪群が展開するⅠ区、Ⅰ区の西側を防御する曲輪群であるⅡ区、Ⅰ・Ⅱ区の背後、標高70〜80メートルのタキノー丘陵に位置するⅢ区からなる。美里殿遺跡は美里子の屋敷跡と伝承され、東西50メートル、南北150メートルの規模で、上城跡の東側斜面に隣接し、上城跡と一体として存在していた曲輪群と考えられる。苗代殿遺跡は、上城跡の東方約500メートルに位置し、東西約110メートル、南北約140メートルの規模で、尚思紹の屋敷跡と伝承される屋敷地とその背後の平場群からなる。城跡は、主に平場や切岸を造成し、柵による防御を施す構築法を基本としており、沖縄に通有の石積囲いの城とは異なる構造である。また、切岸に石を貼り付ける貼石状石列は、沖縄では例を見ない技法として注目される。
13世紀以降、まず上城跡で平場を造成し、切岸や柵列を構築し、一部に貼石状石列を設け、苗代殿遺跡でも同様に平場を造成した。14世紀中頃、上城跡では貼石状石列を北側・西側に廻らし、南側の緩傾斜面と谷地形に囲まれた場所を石積で囲むとともに、美里殿遺跡の平場を取り込み、城域を拡張した。14世紀後半には上城跡内の石積の一部を補強している。14世紀中頃から15世紀前半が城の最盛期であり、上城跡を中心とし、東側は知念半島方面に対する出城的な防御機能を担う苗代殿遺跡、西側はタキノー丘陵を見張り台として、中城湾や西側の眺望を確保する縄張であった。15世紀後半以降、城としての機能を喪失したと考えられる。出土遺物として、中国産陶磁器類が多く、特に佐敷タイプと称される無文外反青磁碗の量が突出し、中国を中心とした活発な交易が推測される。また、高麗青磁、龍文を描く青磁碗、鉄鏃や銛、鞐、鉄釘等も出土した。
このように、佐敷城跡は、尚巴志が琉球統一の過程で居城としたとされる城跡であり、従来知られる琉球の城跡とは異なる構造が良好に遺存する。琉球統一の歴史及び城郭の変遷を知る上で貴重であることから、史跡に指定してその保護を図るものである。