赤木名城跡
あかぎなじょうあと
概要
琉球列島の奄美地域を代表する中世並行期の城郭。城跡は奄美大島の北部西岸にある笠利湾を望む集落背後の丘陵上、標高約100mの通称「神山」に立地する。城跡は北から南に張り出す丘陵尾根上に立地し、南北約300mあり、奄美地域においては屈指の規模をもつ。城郭の縄張り、構造は琉球とはことなり、九州などの山城と類似する。城域は標高100mの最高点を中心とし、曲輪、土塁、石積み、堀切、竪堀などの遺構がみられる。南側には相対的に広い曲輪が展開し、その西側斜面には8段に及ぶ帯曲輪が連続する。これらの曲輪や竪堀の配置から西側の笠利湾方面に対する防御を意識している。発掘調査では柱穴や土坑などの遺構と、11世紀から18世紀にかけての陶磁器が出土したが、城跡が広大に拡張したのは、15世紀から17世紀初めころと考えられる。中世並行期の奄美地域の歴史は、かならずしも明らかではないが、15世紀には琉球と鬼界島は抗争があり、15世紀末に日本勢力が大島への介入を続けており、奄美は琉球・日本双方の勢力との関係をもちつつ展開していた。奄美北端に位置して深く入り込む笠利湾は、交通上、軍事上の要衝であったと考えられ、こうした状況のなかで城郭が築かれたものと推定される。琉球では14世紀ころから石垣造りの独特の城郭が発展するが、奄美大島ではその系統のものは見られず、赤木名城跡は日本からの影響が看取される。このように赤木名城跡はこの時期の琉球と日本・奄美との政治・軍事・経済的な関係を考えるうえできわめて重要な遺跡である。
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国指定文化財等データベース(文化庁)