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松江藩主松平家墓所

まつえはんしゅまつだいらけぼしょ

概要

松江藩主松平家墓所

まつえはんしゅまつだいらけぼしょ

史跡 / 中国・四国 / 島根県

島根県

松江市外中原町・国屋町

指定年月日:19960329
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

松江藩の成立は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦の結果、周防・長門に転封となった毛利氏に代わり、堀尾[[忠氏]ただうじ]が出雲・隠岐の二か国二四万石の領主として入封したことに始まる。忠氏は父[[吉晴]よしはる]とともに初め富田城に入ったが、慶長十二年に松江城の築城を開始、同十六年の完成とともに居城をここに移した。堀尾氏は三代[[忠晴]ただはる]に嗣子がなく、寛永十年(一六三三)に改易。翌年入封した京極氏も、同様の理由で同十四年に改易となった。翌十五年、結城(松平)秀康の三男松平[[直政]なおまさ]が信濃国松本から出雲国一八万六〇〇〇石の領主として移封され、以後、直政の子孫が廃藩までの二三十余年、出雲を領知することとなった。
 松江藩主松平家歴代の幕所は、同家の菩堤等である月照寺に営まれている。月照寺はもと洞雲寺と称したが、寛文四年(一六六四)、松平直政は生母月照院の霊脾をここに安置し、蒙光山月照寺と改称した。同六年に直政が没すると、二代藩主[[綱隆]つなたか]は直政の遺命により廟所を月照寺に営み、山号を歓喜山と改め、ここを藩主歴代の菩堤所と定めた。直政以後、二代綱隆・三代[[綱近]つなちか]・四代[[吉秀]よしとみ]廟・五代[[宣維]のぶずみ]・六代[[宗衍]むねのぶ]・七代[[治郷]はるさと]・八代[[齊恒]なりつね]・九代[[齊貴]なりたか]に至るまで九代の藩主廟墓が造営されている。
 初代直政の廟所の南奥に東面して営まれている。廟門は一間一戸の薬医門の形式で、直政没後一三年を経た延宝七年(一六七九)の建立になる。切妻造の屋根の正面・背面には軒唐破風をつけ、その下の出桁には渦文若葉・眉を彫り、破風との間に竹と虎の彫刻を嵌め込み、格調高く仕上げている。廟門の内側に造られた濠には石橋が架けられ、参道正面に石造の鳥居が建ち、その奥の石垣を組んだ二重の基壇の上に五輪塔形式の基塔を据える。基塔の周囲には石柱の垣を廻わし、さらに周囲には、基塔に向かって右手前の筆頭家老いの献灯をはじめとして、藩重臣から献ぜられた石灯籠を配している。
 直政廟所の北隣に七代治郷の廟がある。二段の石垣を組んで造成された小高い廟所の入口には、双龍や葡萄の精緻な彫刻を施した一間一戸の向唐門形式の廟門が設けられている。門内には直政廟所同様に石造鳥居や五輪塔形式の墓塔を据えられた廟墓があり、周囲には石灯籠が配される。門外には、治郷の下で藩政改革を推進した朝日丹波の紀功脾が建つ。
 この二代の廟を除く七代の廟墓は、本堂をはさんだ墓所の北側に造営されいる。これらは二代綱隆の廟所を奥正面にして参道両側に石垣を築いて造営されており、いずれも総〓(*1)造で桟唐戸の扉をもち彫刻で飾った一間一戸の門を構え、石造鳥居と、二重の基壇の五輪塔形式の基塔を同軸線上に配置し、正面を除く三方に石灯籠を配する共通した形式を有している。しかし一方で、薬医門(二代)・向唐門(三代・四代・九代)・平唐門(五代・六代・八代)の門形式の相違やおのおの門の異なる彫刻、あるいは寿蔵碑(六代廟所内)等が、各廟所の個性や時代的な特徴を示している。この墓域内には、このほか月照院の墓塔があり、南に接して歴代藩主の位碑を安置する霊屋がある。また、石垣上にはもとは塀が廻っていた。
 歴代廟所のいずれにも、各廟の基塔に向かって左前方(初代・二代)あるいは右前方(三代〜九代)に飛び右を配し、おのおの形態の異なる手水鉢(初代〜六代)またたは蹲踞(七代〜九代)が据えられている。これらの周辺には木斛・しぶき等が植えられており、茶室露路風の意匠が窺われるが、これが各廟所の個性に大きく寄与するとともに、この墓所全体を特徴づける要素ともなっている。
 墓所全体は三方を樹叢に囲まれ、霊域としての森厳な雰囲気を保っている。本堂は明治維新の際に取り壊され、基壇と礎石を遺すのみであるが、唐門以内はよく菩堤所としての旧規を残している。
 松江藩主松平家墓所は、統一した形式を維持しながらも、およおよ個性的で時代的特徴をよく示す九代の廟が一体となって遺存しており、近世の大名家墓所の葬制を知る上で貴重である。よって史跡に指定し、その保存を図るものである。

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