萩藩主毛利家墓所
はぎはんしゅもうりけぼしょ
概要
萩藩主毛利家の墓所は、大照院隣接地と東光寺隣接地にある。毛利輝元の子の初代藩主秀就は、慶安4年(1651)、萩城で没し、天樹院で火葬されたあと歓喜寺に葬られた。2代藩主綱広は、亡父のため、承応3年、歓喜寺の改修に着手し、明暦2年(1656)に完工した。この時、秀就の法号大照院に因んで寺名を大照院と改めた。大照院は臨済宗の寺で、延享4年に火災のため全焼し、6代藩主宗広の時、寛延3年に再建した。東光寺は、3代藩主吉就が、元禄3年に創建した黄檗宗の寺である。
東光寺の創立以降、歴代藩主は大照院の両寺に交互に葬られることとなった。即ち、大照院には、初代藩主秀就・2代藩主綱広・4代藩主吉広・6代藩主宗広・8代藩主治親・10代藩主斉熙・12代藩主斉広の7藩主が、東光寺には、3代藩主吉就・5代藩主吉元・7代藩主重就・9代藩主斉房・11代藩主斉元の5藩主が葬られた。
大照院の墓所は、大きく5群に分かれている。墓所内の墓の数は52基で、藩主の墓7基を除いた45基は、藩主室、一族、殉死者等のものである。墓標は、改葬墓1基、新墓2基を除いて、花崗岩製の五輪塔型で統一され、水輪に普の字を、地輪の表には法号、その裏に没年月日を刻むのを原則としている。墓の大きさも藩主夫妻と一族等の2種類に分けてほぼ統一され、藩主夫妻のそれはとくに大型である(総高約4.5メートル)。墓の周囲には玄武岩製の石柱玉垣がめぐらされており、藩主の玉垣の内側と外側には青栗石が敷きつめられている。藩主墓の参道にはそれぞれ鳥居(計7基)が建っていることも特徴である。また、墓所内には、605基の石燈籠がある。
東光寺の墓所は、大きく4群に分かれている。墓所内にある墓の数は40基で、藩主の墓5基を除いた35基は、藩主室、一族等のものである。墓標は大照院とは異なり、花崗岩製の唐破風笠石付方柱型(藩主夫妻の墓の総高は約4.4メートル)で統一され、墓石には法号が、笠石には藩主夫妻の場合には澤潟紋が刻まれているが、没年月日は刻まれていない。墓は、大照院と同様、石柱玉垣で囲まれ、藩主墓の参道には各々鳥居(計5基)が建っているほか、藩主の墓前には、生前の業績を記した砂岩製の神道碑が亀跌の上に立っている。墓所内は、参道・石段は、大照院・東光寺とも玄武岩で造られている。
この両墓所は、明治初年にそれぞれ大照院・東光寺から分離され(東光寺の墓所は明治4年)、毛利氏の所有となり、現在に至っている。
毛利輝元は、慶長5年の関ヶ原の戦いの際、主将におされて豊臣方についた。このため、中国8か国120万余石を領していた毛利氏は、周防・長門2ヶ国36万9千石に削封され、輝元は、同年10月、その責をとって隠居し、子の秀就がわずか6歳で家督を嗣いで萩に移った。寛永2年(1625)、輝元が没すると、天樹院に葬られた。旧天樹院には、五輪塔型、花崗岩製の輝元夫妻の墓、秀就火葬跡が残っている。
萩藩主毛利家墓所は、大照院・東光寺ともに、山林を背にして広大な地域に整然と配置され、その規模の大なることといい、荘厳幽邃なことといい、近世大名墓所の代表的なものであり、大名の墓制・葬制を知る上で重要である。今回こうした歴史的重要性にかんがみ、境内地を含めた大照院の墓所、同じく東光寺の墓所、旧天樹院の輝元墓所を一括し、萩藩主毛利家墓所として史跡に指定する。