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徳島藩主蜂須賀家墓所

とくしまはんしゅはちすかけぼしょ

概要

徳島藩主蜂須賀家墓所

とくしまはんしゅはちすかけぼしょ

史跡 / 中国・四国 / 徳島県

徳島県

徳島市下助任町・佐古山町

指定年月日:20020920
管理団体名:徳島市(平17・6・17)

史跡名勝天然記念物

蜂須賀家は阿波国,淡路国,25万石余を領した外様の国持大名であり,大名家墓所は徳島城跡の北方約0.9km,吉野川の河口部近くに位置する興源寺と,徳島城跡の南西約2.4km,眉山丘陵の万年山の2箇所に営まれた。
 興源寺墓所は,蜂須賀家の菩提寺である臨済宗妙心寺派興源寺の西方に位置し,周囲を築地塀で囲み,北側に濠をめぐらした約12,000m2ほどの敷地で,藩祖家政から初代至鎮・2代・3代・4代・5代・6代・9代の各藩主の遺体が埋葬されている。7代宗英は京都清浄華院に葬られ,興源寺墓所には遺髪が埋納されている。万年山墓所造営以降の8代・10代・11代・12代・13代の墳墓は遺髪を納めた墓である。藩主以外にも,5代の世子の吉武,8代の養子重矩,12代の後室孝,13代の長女賀代が埋葬されている。このほかに藩祖家政の娘で池田家に嫁いだ万の供養塔がある。また,家政に殉死した渋谷丹波氏紀,至鎮に殉死した民沢作右衛門の墓が,それぞれ主人の墓に寄り添って営まれている。家祖正勝夫妻の拝み墓は,蜂須賀家の墓所区域からやや離れて営まれている。歴代藩主・家族の墓石は,いずれも大型の花崗岩製で,五輪塔,無縫塔,櫛形塔の3形式があり,なかでも寺名の元となった2代藩主興源院忠英の墓石は,高さ4.24mの巨大な無縫塔である。
儒教に傾倒した10代藩主の重喜は,明和3年(1766)11月に,万年山に儒葬による一族の埋葬墓を,興源寺墓所に遺髪を納める墓を営む墓制を採用した。万年山墓所は,眼下に吉野川・徳島城下・徳島城跡を望む標高271mの稜線から山裾部に至る,東側を清林谷,西側を巴蛇谷で区画した東西約320m,南北約780m,約160,000m2ほどの墓域で,中腹には結晶片岩の露出岩盤の表面を平らに荒削りして碑文を刻んだ,高さ約3m,幅約8mの明和3年11月在銘の「阿淡二州太守族葬墓域」の石碑がある。幅約70cm,高さ約1mの阿波青石(緑色片岩)を平積みした結界の石塁が,清林谷に約33m,巴蛇谷に約25m残り,山裾部に近い北側部分には,約30cm角で高さ約1mの花崗岩製の「御墓山」と刻字された結界石が14基確認されている。最初の埋葬者は安永9年(1780)に没した8代藩主の宗鎮で,台地の土壇後方の埋穴に柩を埋葬し,土饅頭で覆って墳墓とし,その前面に石製の櫛形塔を据え,土壇の四方に擬宝珠付の勾欄をめぐらして,正面には唐門を配している。10代藩主の重喜以降は,正室,側室,夭折した子供達の墳墓を藩主と同一の区画内に追加しており,被葬者は神仏折衷方式で埋葬された最後の藩主,14代茂韶夫妻とその子息正韶夫妻を合わせて56名を数える。また,昭和46年に大阪より移転改葬された家祖正勝の墓がある。
徳島藩主蜂須賀家墓所は,仏葬から儒葬への転換,埋葬墓と遺髪を納める仏式の墓の併用など特異な形態を示し,森厳な周囲の自然環境と併せて,遺構の遺存状態も良好である。よって史跡に指定して保護を図ろうとするものである。

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