大村藩主大村家墓所
おおむらはんしゅおおむらけぼしょ
概要
大村藩主大村家墓所は、大村湾に流入する大上戸川(だいじょうごうがわ)左岸、江戸時代の玖島(くしま)城下町の北方の長崎街道沿いに位置する本経寺(ほんきょうじ)に所在する近世大名家の墓所である。
大村氏は、戦国時代後半に肥前国大村平野を拠点に勢力を拡大した豪族である。戦国時代末期の当主純忠(すみただ)は、大村湾一帯を手中に収める戦国大名として成長し、南蛮貿易を進め、天正遣欧少年使節に関わった日本最初のキリシタン大名である。大村領内ではキリスト教が広まり、純忠時代にほとんどの神社仏閣が破壊されるに至った。
その後、豊臣秀吉の天下統一、江戸幕府開設とともに、2万7千9百石を安堵されて初代大村藩主となった純忠の息子喜前(よしあき)は、幕府の禁教政策を忖度して、慶長10年(1605)にキリスト教宣教師と断交してキリスト教禁教をはじめ、日蓮宗を軸に仏教復興政策を取ることとした。これには熱心な日蓮宗信者で肥後の大名である加藤清正の勧めがあったとされ、大村家の菩提寺として、また領内中核寺院として万歳山本経寺が慶長13年(1608)に完成した。本経寺が建立された地は、天正2年(1574)の耶蘇蜂起により破壊された山伏の修験坊の跡地に「耶蘇大寺」なるキリスト教会が建てられていたところであるという(『郷村記』)。本経寺は火災により数度の建て直しがあるが、現在の本堂は天明7年(1787)、鐘楼は文政7年(1824)、山門が文政8年(1825)、三十番神社が文政9年(1826)の再建であって、江戸時代の建物が残り、近世大名家の菩提寺の様子を現代に伝えている。
大村家墓所は本堂の西南側の2,500m2の範囲に展開しており、初代藩主喜前(よしあき)から幕末の十一代純顕(すみあき)に至る歴代藩主の墓塔をはじめ、藩主の正室側室、子女等の墓塔が営まれ続け、大村藩家老を勤めた松浦家の墓も置かれている。初代・二代藩主の墓は墓域東北部に東南向きに建てられ、三代から六代藩主の墓は初代・二代に対面する形で設けられ、中央部に広場空間を有していたが、19世紀後半に至って墓所が狭隘となると、広場空間に九代以降の藩主の墓を設けるようになった。
墓所の特徴として、他の大名家墓所において藩主の墓塔の様式が統一されていることが多いのに比較して、笠塔婆・五輪塔・石霊屋等、多様な様式の墓塔が建っていることがあげられる。歴代藩主を見ると、初代・二代・六代・七代藩主は五輪塔、三代・四代藩主は笠塔婆、五代・八代から十一代藩主は石霊屋となっている。これらの石細工は精巧であり、特に石霊屋は屋根、柱、貫等に細かい細工を施し、かつ全国的にも類例が少なく石造美術上の価値も有している。また、巨大な墓塔が多いのも特徴である。初代・二代の五輪塔は高さ2mほどであったが、慶安3年(1650)に没した三代藩主純信、宝永3年(1706)に没した四代藩主純長の墓塔は、それぞれ高さ6mを超える巨大な笠塔婆様式のもので塔身に大きく戒名を刻む。三代以後の墓塔が巨大化する背景として、17世紀中頃の幕府のキリスト教禁教政策の強化の中、長崎街道の側に位置して人目に触れやすい墓所に巨大な墓塔を建てることにより、大村家がかつてキリシタン大名であった過去を払拭し、仏教信仰をより明確に示す意図があったものとも推測されている。
このように、大村藩主大村家墓所は、かつてキリシタン大名であった大村家が、江戸幕府の禁教政策の中で造営した墓所であって、他の大名家墓所では見られない、多様な様式の墓塔と巨大な規模の墓塔が良好に残っており、我が国近世の歴史を知る上で貴重であることから、史跡に指定してその保護を図ろうとするものである。