法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)
ほっけどうあと(みなもとよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)
概要
法華堂阯ハ西御門ニ在リテ頼朝墓ノ下西側ニアリ、始メ頼朝ノ持佛堂ニシテ其ノ薨去後其ノ廟所トナレリ 江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル
今地域内ニ白旗神社ノ小祠ヲ祀ル
法華堂阯ノ背後ナル丘陵ノ中腹ニアリ長方形ニ石疊ヲ敷キ土鏝頭ノ上ニ高サ七尺ノ多重塔一基ヲ建テ石玉垣ヲ周ラセリ
法華堂跡(源頼朝墓)は、神奈川県の南東部に位置し、大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部に所在する。昭和二年の山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した。その後、赤星直忠氏の研究によって、源頼朝墓は法華堂と同一で、中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成十二年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された。指定範囲は東西約一一〇メートル、南北約七〇メートルである。
二代執権、北条義時は元仁元年(一二二四)年六月十三日に死去し、十八日に葬儀が執り行われた。『吾妻鏡』十八日条に「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」、八月八日条に「今日。故奥州禅室墳墓堂<新法花堂と号す。>供養なり」とあり、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されていた。『吾妻鏡』をはじめとする文献史料には、幕府有力者が頼朝法華堂と義時法華堂を併せて参拝したこと、焼亡した両法華堂が幕府によって再興され、修復維持されていたことなどが記されている。義時法華堂の存続期間は、文献史料上の終見が延慶三年(一三一〇)であること(『鶴岡社務記録』等)、出土瓦の年代等から、元仁元年から鎌倉時代末期ころまでと推定される。
鎌倉市教育委員会は平成十七年に発掘調査を実施し、一辺約二八尺(八・四八メートル)の方三間堂で、幅約四尺(一・二一メートル)の縁が巡る法華堂跡を検出した。四周(南側は消失)には雨落ち溝が巡り、軒の規模で一辺四一尺(一二・四メートル)と推定される。鎌倉時代前期から後期の瓦が出土しており、瓦葺きと推定され、高麗青磁梅瓶、青白磁水注破片等の高級貿易磁器も出土している。近世以降の耕作等による削平を受けており、埋葬施設等は検出されなかった。義時法華堂跡境内の範囲は東西約八〇メートル、南北約一一〇メートルである。
義時法華堂跡裏の斜面部には、近世に島津家と毛利家の墓所が営まれた。安永八年(一七七九)に鹿児島藩主島津重豪が島津氏初代忠久墓を造営し、頼朝墓を整備した。文政六年(一八二三)には萩藩主毛利斉煕が毛利氏初代季光墓と季光父の大江広元墓を造営した。墓所はいずれも古墳時代の横穴墓を転用したものである。東側は島津忠久墓、中央が大江広元墓、西側が毛利季光墓で、島津家、毛利家は参道、石段、灯籠等も併せて整備している。
頼朝の法華堂跡は標高二五・五メートル、約九〇〇平方メートルの平場に、義時の法華堂跡は標高二三・五メートル、約六〇〇平方メートルの平場に造営されており、両者の主従関係を明示している。両法華堂跡は幕府を守護し、幕府の精神的な拠り所となった墓所跡、寺院跡である。よって北条義時の法華堂跡と源頼朝墓の参道付近を追加指定し、名称を法華堂跡(源頼朝墓)から法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)に変更し、保護を図ろうとするものである。