福島関跡
ふくしまのせきあと
概要
福島関跡は、木曾谷のほぼ中央、駒ヶ岳の北支脈が木曾川に迫る突端の根の井山(関山)麓の崖上に所在する。明治以降の文献資料や写真等を総合すると、国道の改修、JR中央線の開通や宅地化により、その面影はほとんど失われている。しかし、のこされている各種の文献資料や数点の古絵図を現地を照合することにより、福島町全体の旧町並道路とともに関所の敷地であった狭長な平坦部分は、今日なおほぼ原形を遺存しているとみることができる。
関所内の番所・門・塀・棚等の間数を正確に記す寛文8年(1668)頃の古絵図等を手がかりに、2次にわたり発掘調査を実施した。その結果、番所前の石列、番所から東西にのびた塀の礎石、西門周辺部の石列等を検出し、これらによって番所敷地及び諸施設の配置を確認することができた。しかも、この西門の位置は、福島宿本陣会所角から「百九十一間」の距離があったという信ずべき資料とも一致する。また、現在国道から西門跡へのぼる急坂な小道は、福島関を通過する旧中山道の面影をのこしている。
福島関は、その創設年次は明らかでないが、関ヶ原役後いわゆる五街道の整備とともに幕府の木曾谷防衛の関門として東海道の箱根、新居、中山道の碓氷とならぶ重要な関所であった。その位置が京都と江戸のほぼ中間にあること、しかも木曾谷の流域中両岸が最も狭い地形であることなどを考えると、幕府がこの地に福島関を設けた意図も十分推測されよう。
江戸幕府の交通政策史上における遺構として極めて重要なものとして、旧中山道に接する家中屋敷部分を含め関所跡として指定する。