寺野東遺跡
てらのひがしいせき
概要
寺野東遺跡は、鬼怒川支流の田川右岸に南北にのびる宝木台地の東端、標高四三メートル前後に位置する。台地の東側は、田川・鬼怒川によって浸食され、沖積地が広がっている。南東には筑波山が美しい姿を広げ、遠く北西方向には白根山をはじめ日光連山や赤城山、北には高原山が展望できる。小山市街からは東北東へ約七キロメートルにある。
県営の工業団地造成の事前調査が平成二年から平成六年に財団法人栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センターと小山市教育委員会によって実施された。その結果、旧石器時代の後期に属する石器が四地点からまとまって発見され、縄文時代中期から晩期の集落跡、古墳時代前期の集落跡、同中期末から後期の群集墳、奈良・平安時代の集落跡などが発見された。縄文時代の中期前半からは集落が営まれはじめ、遺跡の中央を北から南に流れる谷の下流を挟んで東西の台地上に、地床炉をもつ五メートルほどの隅丸方形や円形の竪穴住居跡の分布が推定される。中期後半になると集落は大規模になり、谷の東側平坦地上に密集して環状に竪穴住居跡と土坑が分布している。竪穴住居は、石囲い炉をもちほとんど円形から長楕円形で、四から五メートルのものが多い。中期末から後期初頭にかけては、遺跡の北部の谷にかかる斜面に竪穴住居跡、台地平坦面上に土坑が散在し、その南に埋設土器が分布する小規模な集落となるが、集落の南外れの谷の東側斜面にいわゆる水場が形成された。水場は谷に向かって開く幅約一二メートル、奥行き一七メートルの範囲を平坦なU字形に造成し、奥壁を囲むように斜面上部に板塀を立てたと推定される幅三〇センチメートル、深さ二五センチメートル前後の溝が切られている。平坦部の中央は舟底状に掘られ谷底に続いているが、その北東部の縁には土留めや足場と考えられる杭列、南側には割り材を前面に立てた土坑が確認された。谷には土器・石器・礫とクルミなどの種子類が多量に出土した。
後期前半の竪穴住居跡は、北側の谷の西斜面に分布するものが多く、東側には台地平坦面から谷にかけていわゆる環状盛土遺構が形成されはじめる。竪穴住居跡は、地床炉をもつ三から四メートルの小形な円形のものが一般的である。後期後半の竪穴住居跡は、谷西側および環状盛土遺構内部から発見されている。竪穴住居跡は円形もしくは五角形で、入口土坑や石囲い炉をもつ。環状盛土遺構は、外径約一六五メートル、幅約一五から三〇メートルの半円形に延び、東側は川の浸食と用水の掘削によって失われたと考えている。四つの盛土ブロックに分けられ、接する部分は谷状に低くなっている。内部は、当時の表土から二・五メートル以上深い鹿沼軽石層下まで断続的に掘削され、その軽石を交える褐色土が盛土遺構の外側上層部に後期後半から晩期前半に累積して厚く盛られている。内側の下部には後期前半から後半にかけて盛られた骨・炭を多く含む茶褐色や黒色土層が重複して堆積している。部分的な発掘調査の結果でも、盛土遺構の形成過程で竪穴住居、埋設土器、配石、集石が設営されたことや焚火跡が確認できる。またこれらの堆積過程には、膨大な量の土器片や骨・炭の破片と、灰や焼け土がブロック状に廃棄されている。内部の中央や北寄りには、長径一八メートル、短径一四メートルの不整楕円形の台に掘り残した石敷きの遺構が発見されている。また内部は遺構の最終的な姿を示し、南西部に晩期中葉の方形の掘立て柱建物跡が数棟確認された。なお盛土遺構の西側にそって延びる谷部にも、時期的に並行する周囲に石や板を敷いた一辺一メートル弱の井桁状の木組、壁面にそって杭が打ち込まれたほぼ同規模の土坑、長さ数メートルの長方形の井桁状の木組を階段状に連ねた遺構などによる水場が営まれていた。
盛土遺構中から土器片・石器・礫などが多量に出土し、その他土偶・耳飾り・土版・土錘などの土製品、多くの石錘や石剣・石棒・独鈷石・玉類などの石器・石製品、少量の鹿角製の〓(*1)や装身具など、遺跡全体から多種多様な遺物が発見されている。
本遺跡は、縄文時代中期から晩期に及ぶ拠点的な集落跡であり、その変遷の様相を示す。さらに、後期初めから七〇〇年ほどの間に断続的に大土木工事が行われたいわゆる環状盛土遺構や水場、そして豊富に出土した遺物は、縄文時代の集落や社会の構造、精神生活、生活の様子とその変遷を考察する上で貴重な資料を提供した。よって特に環状盛土遺構と初期の水場などを史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。