上野原遺跡
うえのはらいせき
概要
上野原遺跡は鹿児島県中央,国分市に所在する縄文時代早期前葉の集落跡である。遺跡は錦江湾に接した標高250mの上野原台地に立地する。上野原台地自体は姶良カルデラ(錦江湾)起源の火砕流が堆積したシラス台地であるが,台地上には桜島を噴出源とする10数層の火山灰が厚く堆積している。早期前葉の集落跡はこれら火山灰層のうち,約9,500年前に降下した軽石層(P-13)の直下から,良好に保存された状態で発見された。
集落跡は台地中央から台地北縁にかけてのびる自然の浅い谷を利用した2筋の道に沿って広がり,竪穴住居跡52棟,集石造構39基,土坑約260基,煙道付き炉穴16基がいくつかの群をなして配置する。
竪穴住居跡は山辺2〜5mの隅丸方形ないし長方形を呈し,床面積は3〜10平方メートルである。柱穴は竪穴住居跡の掘り込みの外側にくるものが多い。数ヶ所の柱穴が外周を巡り,上屋は主柱を持たない構造であったらしい。また,住居跡覆土への火山灰の堆積状況から一時期の在居は10棟前後であろうと推定される。煙道付き炉穴は焚き口と煙出しの2つの掘り込みをトンネルでつなぎ二割り抜きの連結部分に焼土・木炭が散らばった硬化面がある。集石遺構は径30cm前後から,160×120cmほどのものまであり,下部に掘り込みのある例もある。安山岩の角礫や円磯が数個から100個前後まで積年上げられ,中には石皿の破片や磨石等の石器も再利用されている。この連穴土坑と集石遺構はともに調理施設と考えられ,前者は薫製を作った施設,後者は石蒸し料理の跡と推定される。土坑は住居跡群の間に散在し,特に集中して存在する箇所もある。その規模・平面形は径70〜150cmの円形,長辺60〜160cmの長方形,長軸90〜180cmの楕円形など様々なものがあり,貯蔵穴,墓坑などの性格が考えられる。
遣物としては,早期前葉の前平式土器や石鋲・磨製石斧・石皿・摩石などがあり,縄文時代の道具立てがすべて揃っている。
南九州では石皿や磨石に示される木の実など植物質食料の加工技術,集石造構・煙道付き炉穴そして土器に示される食料の調理法が早くから確立し,それら技術を背景に列島の他地域に先駆けて縄文時代草創期から安定した社会が営まれた。これまで,加世田市栫ノ原遺跡,鹿児島市加栗山遺跡,西之表市奥ノ仁田遺跡などがその状況を明らかにしてきたが,上野原遺跡は食料獲待上の技術革新よって集落規模まで拡大した上縄文時代初期の遺跡として最大の集落跡である。軽石層によって保護された50棟以上の住居跡群や多数の植物質食料の調理・加工施設,そして追跡が長期にわたる生活痕跡として残され,列島における定住生活の始まりの状況を端的に示している。我が国の縄文文化の幕開きを知る上に欠くことのできない重要な遺跡であり,よって,史跡に指定し保存をはかろうとするものである。