三戸城跡
さんのへじょうあと
概要
三戸城跡は三戸町の中心部、標高(ひょうこう)約131mの独立(どくりつ)河岸(かがん)段丘上(だんきゅうじょう)に立地する、室町時代から江戸時代のはじめにかけての奥州(おうしゅう)南部領(なんぶりょう)の本拠と伝えられる城跡である。
この城を描いた複数の絵図(えず)が残り、中でも安政(あんせい)4年(1857)成立の「三戸郡(さんのへぐん)三戸(さんのへ)御古城御縄張之図(おんこじょうおんなわばりのず)」は当時の状況を描いた精密(せいみつ)な測量図(そくりょうず)であり、曲(くる)輪(わ)の配置や門の位置、城(じょう)道(どう)等を現地(げんち)で照合(しょうごう)することができる。平成16年度から令和元年度にかけて三戸町教育委員会により実施された発掘調査により、絵図に描かれた施設の位置や時期の検証(けんしょう)等が行われ、その結果、絵図は廃(はい)城(じょう)時の三戸城の状況をよく表していることが明らかになった。
また、石垣の石材の加工法から石垣が築かれた時期が複数あること、江戸時代初頭と推定される造成土下(ぞうせいどか)で、複数の整地層(せいちそう)が認められ、14・15世紀代の国産(こくさん)陶器(とうき)が出土することから、この城は少なくとも15世紀以前から城館(じょうかん)としての利用が始まり、江戸時代初頭に至るまで複数回の改修が行われたと考えられる。
三戸城跡は盛岡(もりおか)城(じょう)築城(ちくじょう)以前(いぜん)の南部氏の本城(ほんじょう)の姿が詳細に復元できるとともに、戦国(せんごく)末期(まっき)から近世(きんせい)初頭(しょとう)における北東(きたとう)北(ほく)の築(ちく)城(じょう)技術(ぎじゅつ)を知る上で重要である。