檜山安東氏城館跡
檜山城跡
大館跡
茶臼館跡
ひやまあんどうしじょうかんあと
ひやまじょうあと
おおだてあと
ちゃうすだてあと
概要
鎌倉時代、得宗[[御内人]みうちびと]として津軽十三湊に栄えた安東氏は嘉吉年間(1441〜1443)盛季の時南部氏に追われ蝦夷地(北海道)にのがれ、茂別館を築いている。康正2年(1456)政季の時南下に成功、出羽檜山一帯を領した。政季の頃檜山城の築城が開始され、明応4年(1495)その子忠季の時に完成をみている。その後檜山安東氏は湊安東氏と対立し、天正17年(1589)檜山安東実季は湊安東道季の攻撃をこの城にうけている。しかしその後逆に檜山安東氏の勢は強大になり、湊安東氏を併合して秋田氏を称し、慶長3年(1598)までこの檜山を拠点とした。
即ち檜山城は檜山安東氏の本城として室町時代から江戸時代初期にかけて長期間使用された山城である。霧山城あるいは堀内城とも呼ばれ、標高145メートルの山頂よりのびる2本の尾根を中心に平場、堀切をもうけて要害としている。字古城には館神、御料場、古寺、字赤館には鉄砲場、背中あぶりという地名が残り、秋田県(県庁書庫)所蔵の絵図(享保13年、天保2年作成)と照合することによってある程度城の機能を復原できる。
城跡北方に国清寺跡があり、安東氏菩堤寺の跡である。
檜山城の北西に大館、西に茶臼館が配された。大館跡、茶臼館跡はいずれも標高50メートル前後の丘陵末端部を数本の堀、土塁で区分した簡潔な構造であるが規模は大きい。大館跡は昭和46年から6次にわたり発掘調査が行われた。その結果多数の住居跡が検出され、土師器、墨書土器、鞴羽口、洪武通宝等の遺物が出土した。住居跡はほぼ10〜11世紀に属するが、戦国時代の大館はこれらの住居跡の展開する台地を濠によって区分している。現在、大館・小館と区分されて呼ばれている。尖端部分には二重、三重の柵を配して防禦をかためた。
茶臼館も大館にきわめてよく似た構造である。区分された区画は小館、中館と呼ばれている。安東氏臣大高相模守康澄の館跡という伝承がある。大館、茶臼館は構造上の共通点の他、ともに正面が羽州街道に面しているという立地上の共通点もある。
檜山城には米代川に面する丘陵上にいくつかの支城的役割をはたす館が設けられていたと考えられるが、今回はその中の大館、また南方の備えである茶臼館、そして本城及び国清寺跡を一括して指定し保存を図るものである。