大館跡
おおだてあと
概要
蝦夷地への和人の進出過程を知る上での主要な史跡として、いわゆる道南12館の存在は、夙に注目されているが、大館はその一つであり、福山城築城までの蠣崎(松前)氏の本拠として特に重要なものといえる。
大館の起源は室町時代に遡り、嘉吉年間に南部氏との戦いに破れて蝦夷地に敗走した安東氏が居館としたのに始まると伝えられる。
永正10年(1513)に、原住民の蜂起により大館も陥ちたが、翌年、蠣崎光広が大館に入り、徳山館と名を改めた。その後、蝦夷地全域を支配するようになった蠣崎氏は、慶長11年(1606)に徳山館の南に新城を築いて移転したため、徳山館は廃絶された。
台地上に占拠する大館は、尖端部の「小館」と堀割を挾んで北に続く「大館」に区画されている。南側の小館沢口に架橋して入口とし、「大館」の後背部に柵を配して防備を固め、さらにその後方は堀割をつくっている。居館は「大館」に建てられたものと思われ、その北東部に、焼材等を検出する地点がある。