唐津城跡
からつじょうあと
概要
唐津城跡
からつじょうあと
佐賀県
唐津城は、唐津湾を臨む満島山(標高42m)山頂部を本丸とし、南西に広がる砂丘上に二ノ丸、三ノ丸が連なる平山城である。満島山の東西に広がる松原を翼に見立て、舞鶴城とも呼ばれる。
慶長7~13年(1602~1608)に寺沢志摩守広高により築かれたと伝えられている。正保4年(1647)の堅高死去に伴う寺沢家断絶により、当該期の史料が残されておらず、築城当時の具体的な状況は不明である。その後、唐津藩では大久保・松平・土井・水野・小笠原が入転封を繰り返す。明治4年(1871)の廃藩置県により唐津藩は解体され、明治6年(1873)の廃城令により、唐津城は廃城となる。明治10年(1877)には舞鶴公園となり、昭和41年(1966)の天守閣建築をはじめ、城跡内各所で櫓等の整備が進められ、現在に至る。
唐津城跡本丸が所在する満島山では、最上段の本丸と、その南にある二ノ曲輪と呼ばれる一段低い平坦面があり、搦手にあたる北西部には両郭を繋ぐ帯曲輪が南北に延びている。さらに山裾海岸部には、満島山を囲むように腰曲輪が広がっている。
平成20年度(2008)に着手した唐津城石垣再築整備事業では、本丸の3ヶ所で櫓台や石塁等を、また大手門を構成する櫓台や門礎石を検出し、絵図に描かれた江戸時代の具体的な遺構が初めて確認された。天守台周辺では、現況石垣に先行する埋没した旧石垣を検出し、金箔瓦が出土する等、名護屋城に関連する調査成果が得られている。これにより、唐津城が築城されたとされる慶長7~12年(1602~1608)より前に、豊臣政権による何らかの拠点が存在していた可能性も指摘され始めている。
佐賀県唐津市東城内191番 外5筆
唐津市指定
指定年月日:20190329
財務省
記念物