盛煉社製銀座煉瓦街れんが
せいれんしゃせいぎんざれんががいれんが
概要
1872(明治5)年、和田倉門付近から火の手が上がった大火は、銀座から築地一帯を焼失させた。明治新政府は、この機会をとらえ近代国家にふさわしいまちとして、れんがによる燃えない洋風のまち「銀座煉瓦街」を建設した。特にこれを主張したのは大隈重信と大蔵省にいた井上馨、渋沢栄一らとされる。明治政府はお雇い外国人の英国人トーマス・J・ウォートルスに設計・監督をあたらせ、同年8月には建設が始まった。ウォートルスは、大阪造幣寮建設の実績もあり、小菅に最新式のホフマン式輪窯3基を築いてこの煉瓦街に使用するれんがを製造するなど、土木建築全般にわたり力を発揮した。通りに沿って2階建ての商店建物は、列柱を配した歩廊(アーケード)にバルコニーを設けたジョージアン様式により統一された。道幅15間(約27.3m)の表通りは、8間(約14.5m)に拡幅された車道と、街路樹とガス灯が配された3間半(約6.36m)×2のれんが舗装の歩道によって構成された。着工から1年後に表道りが完成し、1877(明治10)年に全計画が完了した。煉瓦街の各家屋は、当初高額な家賃のために空き家が目立ったが、ショーウィンドウを設けた新しいスタイルの商売や、新聞社や雑誌社が集まったことなどもあり、文明開化を象徴する街となった。煉瓦街自体はその後の関東大震災で崩壊したが、今日まで銀座はわが国の商業の中心地として発展してきた。このれんがは、小菅集治監が置かれる前に小菅で操業していた盛煉社の窯で製造されたものである。
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