旧造幣寮
きゅうぞうへいりょう
概要
【答申】
造幣寮は、明治4年2月に創業された。近代的造幣工場の建設は、新国家の形成に欠くことのできない施設として、すでに慶応4年、政府が直営を決定していたものである。当時、たまたま英国が香港に設立した造幣局が閉鎖されたので、明治元年11月、政府は長崎の英国商人ガラバを通じ、英人ウォートルス(T. Waters)を雇入れ、工事の設計監督にあたらせ、工場の建設をはじめ、3年2月には、前同局々長キンドル(T. William Kinder)を長とする7人の外国人を雇入れ、機械の据付けをはじめた。
かくて、4年2月落成とともに、創業式をおこない、右大臣三條実美以下の政府要人、各国公使が参列した。また、この年「造幣寮定則」を定め、「新貨幣條令」を公布し、金銀貨の鋳造をはじめ、さらに「造幣寮職制」によって、造幣頭以下職工、外国雇人にいたるまでの陣容を整え、造幣首長(作業部長)にはキンドルが任ぜられた。ついで5年6月、明治天皇が行幸し同寮応接所を行在所とし、これを「泉布観」と命名した。6年には銅貨鋳造工場が完成している。
かくて生産も軌道にのり、10年1月には「造幣寮」を「造幣局」と改称した。また、この頃より外人技師も次第に帰国し、8年キンドル以下の契約解除にはじまり、22年マクラガン(R. Maclagan)の解雇をもって、ようやく日本人みずからの手で操業しうる態勢が確立した。そして、内閣官制施行のあと、19年に「造幣局官制」が制定され、これをもって新転機を迎えるのである。
この官制で、造幣局の業務は貨幣製造と定められたが、それまでは、同局の工業水準は日本の一般的水準をはるかに越えていたので、造幣に必要な硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークス、機械器具の生産にいたるまで、みずから行ない、ようやく明治18年以後これらを順次民間に払下げたのである。
工場建物は明治6年に完成したが、22年北半分にあたる約2万6千坪を泉布館とともに宮内省に所管替えし、南半分3万余坪が造幣局用地(現在は約3万8千坪)として残ったが、当初の建物は耐震性に欠けていたため、大震災以後昭和3年より13年にかけて、すべて建替えられた。従って、現在造幣局には創業当時の工場建物は残っていない。
今回指定するものは、ウォートルスの建築した泉布館(昭和31年重要文化財指定)、金銀鋳造工場玄関、現桜宮公会堂玄関(昭和31年重要文化財指定)を含む地域、および造幣局の旧正門建物、門柱、ガス灯、鉄柵、塀土台石、境界石標等の存在する地域、さらに淀川河畔にのこる護岸の石垣等である。
遺跡地の現況は、泉布観の区域は大阪市有地であり、造幣局の区域は国有地であるため、景観も良好で保存管理上の問題はない。ただし、国道を泉布観よりに拡幅することがすでに決定しているため、泉布観地域の指定は、これを予定し範囲を決める必要がある。
【告示前報告】
造幣寮は、明治4年(1871)西洋式機械を導入して新貨幣を鋳造することを目的として大阪の大川河畔に創業された。近代的造幣工場の建設は、新国家の形成に欠くことのできない施設として、すでに慶応4年(1868)、政府が直営を決定していたものである。当時、イギリスが香港に設立した造幣局が閉鎖されたので、明治元年(1868)11月、政府は長崎のイギリス商人グラバーを通じてイギリス人ウォートルスを雇入れ、工事の設計監督にあたらせ工場の建設をはじめた。明治3年(1870)2月には、前同局局長キンドルを長とする七人の外国人を雇入れ、機械の据え付けを行った。
明治4年(1871)2月に行われた創業式には、右大臣三條実美以下の政府要人、各国公使が参列した。また、この年「造幣寮定則」を定め、「新貨条例」を公布し、金銀貨幣鋳造場において金銀貨の鋳造をはじめた。さらに「造幣寮職制」によって、造幣頭以下職工、外国雇人にいたるまでの陣容を整え、造幣首長(作業部長)にはキンドルが任ぜられた。ついで明治5年(1872)6月、明治天皇が行幸し同寮応接所を行在所とし、これを「泉布観」と命名した。泉布観はウォートルスによって建築された煉瓦造2階建て、建物の周りにヴェランダを巡らせたヴェランダ・コロニアル形式の建物である。明治6年(1873)には銅貨幣鋳造場が完成している。また、造幣に必要な金銀の分離精製や貨幣の洗浄に必要な硫酸や、精製・照明用の石炭ガスの生産を行っており、敷地内では日本初といわれるガス灯がともされ、その一部は現存している。
このようにして生産も軌道にのり、明治10年(1877)には「造幣寮」を「造幣局」と改称した。また、この頃より外人技師も次第に帰国し、明治8年(1875)キンドル以下の契約解除にはじまり、明治22年(1889)マクラガンの解雇により、日本人の手で操業しうる態勢が確立した。そして、内閣官制施行のあと、明治19年(1886)に「造幣局官制」が制定され、造幣局の業務は貨幣製造と定められた。
工場建物は明治6年(1873)に完成したが、明治22年(1889)北半分にあたる約2万6千坪を泉布観とともに宮内省に所管替えし、南半分3万余坪が造幣局用地(現在は約3万8千坪)として残ったが、当初の建物は耐震性に欠けていたため関東大震災以後昭和3年(1928)より昭和13年(1938)にかけて、すべて建替えられた。その際、金銀貨幣鋳造場の正面玄関が泉布観敷地内に移築され、昭和10年建築の明治天皇記念館(旧桜宮公会堂)の玄関となった。従って、現在造幣局には創業当時の工場建物は残っていない。
このように、旧造幣寮は、明治新政府の通貨事情を改善し、国際的な通貨体制に対応するために設置された本格的な洋式工場であり、我が国の近代史を考える上で貴重な遺跡である。
答申当時指定しようとしたものは、泉布観、金銀貨幣鋳造場玄関(ともに昭和31年重要文化財指定、後者の指定名称は旧造幣寮鋳造所正面玄関)を含む地域、および造幣局の旧正門建物、門柱、ガス灯、鉄柵、塀土台石、境界石標等の存在する地域、さらに大川河畔にのこる護岸の石垣等である。なお、泉布観敷地内には、中等洋人館に附属した煉瓦小屋も曳屋されて残る。旧正門と正門建物(衛兵詰所)はウォートルスの設計であり、門柱は鋳鉄製で、衛兵詰所はモルタル塗り煉瓦造りで八角宝形造平屋建桟瓦葺の建物である。また、護岸の石垣は、当初部分が多く残る。このうち現存しない鉄柵、塀土台石、一部の境界石標以外を指定し保護を図ろうとするものである。