二宮敬作書状
にのみやけいさくしょじょう
概要
差出には二宮敬作の号である「如山」、受取には「おしけとの并ニ小供衆中」とある。敬作は伊予出身で、シーボルトの初期の門人。シーボルトが再来日した際には長崎で再会を果たしている。
書状には敬作の長男である二宮逸二、甥である三瀬諸淵の近況が記されている。逸二については、二宮逸二を対馬に派遣していたところ、10月3日に長崎の敬作の家に無事に帰宅したとある。文久元年3月にロシア軍艦のポサドニック号が対馬の芋崎浦を占拠し、外交問題となっているが、逸二が敬作の意向により対馬にその情報探索に入ったことを示している。三瀬諸淵については「周三(諸淵)事江戸ニてふし(無事)、彼是と申事有之候よしにて如何哉と存候」とあり、シーボルトが幕府の外交顧問となった際に通訳として一緒に江戸に入ったものの、何かトラブルに巻き込まれていることを記している。諸淵はシーボルトが外交顧問を解任された後、佃島において長い投獄生活を送ることになる。
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愛媛県歴史文化博物館