神之島図
かみのしまず
概要
長崎湾に浮かぶ神ノ島および四郎島・小島における塡海工事や佐賀藩台場築造実施前後の様子がわかる絵図。地形を表した本紙の上に数枚の懸紙があり、南端の兜崎台場には「▲ホーウヰツスール御筒壱挺」・「▲▲御石火矢玉目壱貫目弐挺」など配備砲種の記載も一部に見られるが、図面を描く広い懸紙は三枚ある。島東端の池ノ御前の陣屋が一枚、島中央部スゲノサコ付近の玉蔵・薬蔵・御道具・番所と各施設をつなぐ道筋が一枚、そして島西端から四郎島・小島にかけた一帯に海中埋立て後の地形と砲台・土塁等の構築物を表すものが一枚である。
嘉永4年(1851)に見分のため現地に赴いた佐賀藩士伊東次兵衛は、6月に「四郎嶋・小嶋取り繋ぎの義、大躰出来立て居り」(「點心録」6月5日条)と記し、8月に「今日神ノ嶋見分、小四郎嶋取り繋ぎの義、存外に出来立て居り候事」(「點心録」8月17日条)と記しているが、12月には四郎島を見分し、「同所取り繋ぎの義、段々手寄せ中間五拾間計りの処、未だ出来兼ね居り申し候」(「官私點心録」12月8日条)と記している。同月には滞府中の10代佐賀藩主鍋島直正から「両島御手当向きの儀、猶又果敢取候様取り計い、明春御下国ころ迄出来立ての凡そ見渡し」をつけるよう国許に指示が出されており(「直正公譜」12月20日条)、神ノ島・四郎島間の塡海工事が容易には進捗しなかった様子をうかがわせる。
本図によると、四郎島・小島間は「小島取繋処三十七間」、12月段階で「中間五拾間ばかり」が未完成だった神ノ島・四郎島間は「海中築留所百弐拾七間」。このほか神ノ島側の付け根に位置する崎雲浜手台場も「濱手築出四拾七間」として埋め立てられていることが本図で分かる。但し、崎雲浜手台場の西側にのちに増築される石垣付け根の砲座列はなく、四郎島台場でも砲座の配列が後年の絵図とは異なり、池ノ御前の波止場もないことから、本図は塡海工事完成直後頃の様子を示すものと考えられる。