神ノ島・四郎島填海工事之図
かみのしま・しろうじまてんかいこうじのず
概要
弘化2年(1845)、幕府はオランダ国王の開国勧告を拒否したのち、長崎警備を担当する佐賀・福岡両藩に対し長崎港の台場改築について諮問を下した。これに対し10代藩主鍋島直正は、警備の重点を港外(外目)に移し大口径の大砲増設を進言したが財源の問題もあり容れられなかった。そこで直正は、佐賀藩領(深堀領)である伊王島と神ノ島、四郎島に砲台を築くことで独自に増強を図った。その一環として嘉永4年(1851)6月頃、120間(約200m)ある神ノ島と四郎島の間を埋め立てる填海工事に着手した。本図はこの工事の様子を昭和初期に描いたものである。奥が四郎島、手前が神ノ島だが、その間の堤防めがけ無数の小舟が参集し、積載した石材を次々と海中に投下している。外目の速い潮に石が流され工事は難航したものの、翌年4月に竣工した。そして同年7月には佐賀城下で築地反射炉が完成し、ここで製造された大砲が四郎島などの新砲台に装備されていく。佐賀藩が独自で敢行したこの大工事を長崎の民衆は格好の話題にしたようで、『鍋島直正公伝』には「どんどん転びの堰所の石よ、どこで止まるか先は知れぬ」という長崎での流行歌が記されている。