年未詳九月十日付前田利長書状(駒井中務少輔宛)
ねんみしょうくがつとおかづけまえだとしながしょじょう(こまいなかつかさしょうゆうあて)
概要
加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長の書状である。宛て先は「中少」、即ち駒井中務少輔(※1)である。中少宛利長書状は現在まで14通が知られるが、本史料は含まれておらず、新発見といえる(当館蔵の利長書状は6通目)。駒井は慶長6年(1601)利長に仕え、放生津(新湊)を拠点に越中の行政を担当していた守勝と思われる。また、守勝は高岡開町(1609年)当時の町奉行・小塚淡路秀正の代理も務めた人物である(※2)。
内容は断片的で把握し難いが、意訳すると「はや丁度良い時期になったので、知行割(※3)をしたいと思う。内々にそのように心得て、無足(※4)の者を書き上げて提出せよ」となろうか。
どこの知行割なのかは不明だが、「年未詳十月十九日付前田利長書状(駒井中務少輔宛)」(『前田利長展』当館特別展図録、平成2年、p46)によると、駒井は放生津での知行地の場所替えを望み、利長はそれを了承していたとされており、本史料との関連が推察される。
年代は未詳だが、他の史料との類似性などから高岡開町前後とも思われるが断言はできない。
本史料にはヤケ、擦れ、シミ、虫損などがみられる。
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【釈文】
はや、じぶんニて候間、ち
きやうはりをいたし申度候、
内々、其心へ候て、むそくの物
かきたて候て可給候、
以上、
九月十日
(奥上書)
「中少 まいる ひ」
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※1【駒井 守勝】こまい もりかつ
一般には豊臣秀吉・秀次に祐筆や行政官として仕え、一級史料の『駒井日記』の著者「駒井重勝」(https://kotobank.jp/word/%E9%A7%92%E4%BA%95%E9%87%8D%E5%8B%9D-1075805)として知られるが、『加能郷土辞彙』(日置 謙、昭和17年)や『石川県姓氏歴史人物大辞典』(角川書店、平成10年)などの郷土資料には「守勝」とある。『富山県史』通史編Ⅲ 近世上(昭和57年)p86では守勝を重勝の「一族」と推察しているが、経歴や没年等共通点が多く、同一人物と思われる(慶長6年(1601)の前田家仕官の際などに改名したか)。
知行は「慶長十年富山侍帳」(『慶長元和寛永侍帳』石川県立図書館蔵(森田文庫)所収)、及び慶長14年(1609)の高岡侍帳(『高岡町図之弁』所収)、そして「慶長之侍帳 十七八九年之頃」(『慶長元和寛永侍帳』同上)のいずれにおいても2,000石で変わらない。
また利長より「中少(中しよ)」宛の文書は、大西泰正編「前田利長発給文書目録稿」(『前田利家・利長』戎光祥出版、2016年)には1,431通(遺漏は数十通あり)の利長文書のうち、14通が確認できる。内容の多くは放生津関連であり、同地の替地関連・入船役肝煎・浦役銀のほか、油役銀、亀谷銀山役銀、飛騨入役銀などの幅広い事項の管理を命じられ、利長の守勝に対する信頼がうかがえる。また上述の高岡町奉行代理任命や、高岡城への詰夫2名の手当についての指示(十月二十六日付、同展図録p32)も受けている。
そして、守勝は利長死後も算用場関係(1616年~)、小物成関係の収納(1625~38年)の奉行も務めている(『富山県史』通史編Ⅲ 近世 上、p136~136)。
※2・・・「年未詳九月二十三日付前田利長(駒井中務少輔宛)」『前田利長展』当館特別展図録、p31
※3【知行割】ちぎょうわり
知行とは、「近世、将軍・大名が家臣に俸給として土地の支配権を与えること。また、その土地」のこと。知行割は「①知行を割り当てること。/②江戸時代、知行額の増減、知行所の交代などをすること。また、それをつかさどる職。」
HP「大辞林 第三版」平成28年12月16日アクセス
※4【無足】むそく
知行の料足 (りょうそく) のない意で,鎌倉~室町時代,武士で所領,給地をもたないこと,またはその人をいう。江戸時代には知行高のない軽輩の武士をいった。
HP「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」平成28年12月15日アクセス