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慶長六年七月二十一日付 前田利長知行宛行状(中川三左衛門尉宛)

けいちょうろくねんしちがつにじゅういちにちづけ まえだとしながちぎょうあてがいじょう なかがわさんざえもんのじょうあて

概要

慶長六年七月二十一日付 前田利長知行宛行状(中川三左衛門尉宛)

けいちょうろくねんしちがつにじゅういちにちづけ まえだとしながちぎょうあてがいじょう なかがわさんざえもんのじょうあて

文書・書籍 / 安土・桃山 / 富山県

前田利長  (1562~1614)

まえだとしなが

富山県高岡市

慶長6年7月21日/1601

紙本・墨書

本紙:縦18.3㎝×横46.2㎝、(全体)50.0×121.1、(軸長)58.5

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-191

高岡市(高岡市立博物館保管)

 加賀前田家2代当主で高岡開町の祖・前田利長の知行宛行状である。
 宛て先の中川三左衛門尉に対し分国(加賀藩領内)の内より200石を加増するとある。しかし、この人物については侍帳などにその名は無く現在のところ不明である。ただ、『慶長之侍帳(十七・十八・十九年之頃)(石川県立図書館蔵)に「弐百石 加州/一、四百石 拾四人 中川三郎左衛門」(「一組 平野弥次右衛門・堀内膳」内)とあるが、三郎左衛門の履歴も不明であるので、その関連も不明。
 日付は関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601)7月21日である。大西泰正氏作成の利長書状リスト(※1)によると、同日に知行宛行状を受けているのは、井上勘左衛門(200石)、村井又兵衛尉(150石)の2名で、前後には今枝与右衛門(12日、1,000石)、及び葛巻隼人/大音主馬介(26日、知行所目録、500石)らがいる。彼らは主に大聖寺城の戦い(慶長5年8月3日)などに功績のあった者たちなので、中川もその内に含まれる者と思われる。
 利長の花押が据えられているが、これは大西氏の分類では「A型」であり、その最も早い時期(天正13年(1585)閏8月~慶長3年(1598)10月3日/同5年(1600)2月晦日~同7年3月28日)に使用された花押である(※2)
 本史料は旧蔵者によると高岡の金丸家(東山庵グループ)のコレクションの旧蔵品とのことである(※3)
 形態は元はおそらく折紙であったものが下半分が切断されたものと思われる。
 状態は若干のシミがみられるが良好といえる。

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【釈文】

為加増分国之
内、弐百石之所、
令扶持訖、全可
知行之状、如
件、

慶長六年
 七月廿一日 利長(花押)

      中川三左衛門尉殿

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【注】

※1 大西泰正編「前田利長発給文書目録稿」(同編『前田利家・利長』戎光祥出版、2016年)に1,431通、及び同「前田利長発給文書目録稿(補遺分)」(同「前田利長論」『金沢城研究』第16号、金沢城調査研究所、2018年3月)に139通が掲載されている。

※2 大西泰正「前田利長論」『金沢城研究』第16号、金沢城調査研究所、2018年3月、七頁。

※3 金丸家は高岡市源平町(のち問屋町)で繊維問屋「丸宗」を経営(別紙、当館企画展図録『高岡の老舗』2004、p8)。「東山庵」とは金丸明義氏の庵号で、その日本美術コレクションは全国的に著名である。同コレクションは日本を代表する宸翰などの書跡や屏風、蒔絵、陶磁器などの名品からなる(別紙、富山美術館図録『東山庵コレクション 近世・日本の美の心をもとめて』1984、序文/高岡市美術館『安土桃山・江戸の美 ~知られざる日本美術の名品~』2010年、p6-7)。これまで、個別作品が研究書や美術全集に収録され、また全国の展覧会に出品されたりしていた。コレクション展としては、富山美術館「江戸蒔絵と屏風展」1984年9月)、同館「近世・日本の心をもとめて/書跡・絵画・漆工・陶磁器」展(同年11月)、高岡市美術館「安土桃山・江戸の美 ~知られざる日本美術の名品~」展(2010年)が開催されている。しかし最近、思文閣をはじめとして、秋華洞やネットオークションなどでも大量に販売されており、流出したものと思われる。

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