年未詳六月十二日付前田利長判物(いなの徳左衛門宛)
ねんみしょうろくがつじゅうににちづけまえだとしながはんもつ(いなのとくざえもんあて)
概要
瓜を贈られたことを謝し、あわせて近況を伝えたもの。利長はこの種の礼状を治世の根幹である人心掌握のためか、盛んに発給している。礼状には二種類あり、物を贈った本人に直接送るもの(署名・花押・捺印などがある半公文書)と、側近等に礼を言づけるもの(「かしく」という女房書の形式で書き結ぶ私文書)があり、本資料は前者に当てはまり、政治的意味もうかがえる史料である。
この花押は利長の四つある花押のうちの三つ目で、慶長7年(1602)9月1日から同14年(1609)9月17日(同13日に高岡入城)まで使用していたもの(利長40~47歳/大西泰正「総論 織豊期前田氏権力の形成と展開」『前田利家・利長』戎光祥出版、2016年、p33)。また、花押の変化はその人の心理的、あるいは社会的変化をうかがえるものとされている(金龍教英「前田利家・利長発給文書について」『富山史壇』78,1982年)。利長は慶長6年(1601)、秀吉、父利家の死後、前年の関ヶ原の戦いで豊臣方を破ってから、権力を集中してきた家康に対し、母芳春院を江戸へ人質に出し、姻戚関係を持つ(利常(当時は利光)に徳川秀忠の娘(珠姫を娶った)ことによって前田家を安泰ならしめんと苦慮奔走していた年であり、その時の心理の動きが花押の変化になったものと思われる。
宛所の「いなの徳左衛門」とは誰なのかは明らかではないが、「稲野村」(現富山市月岡町)の住人であれば、そこの有力農民なのであろうか。
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【釈文】
おち瓜廿持セ
越候、意細
御入共候、祝着候、
此方いまた指候間、
此刻つゝけ候、
かしく、
六月十二日利長(花押)
いなの徳左衛門