年未詳五月十日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)
ねんみしょうごがつとおかづけよこやまたかもとしょじょう えびさかむらごへえあて
概要
江戸参向用意支えにつき取持願書。横山貴林(タカモト/1695~1748)は加賀八家(年寄)・横山家6代。通称は監物。本史料は年未詳だが、貴林は享保9年(1724)、大和守に任ぜられたので、これ以前と思われる。
宛所の海老坂村五兵衛は現高岡市東海老坂(横山家知行地)の旧家・上坂(こうさか)家の人。元禄3年(1690)同家で初めて山廻役(十村分役)となった同家の役儀初代。
貴林が御用につき江戸へ行くが、「用意の要」についていささか支えがあるので、「取り持ち」をしてほしい。なお、詳しくはおそらく使者の松山助次右衛門の申し述べる。なお、十村の五十里村庄右衛門(高島氏/現高岡市五十里)とも協力してほしいとある。
加賀前田家三代当主・利常による農政改革「改作法」施行(1651~56)により、加賀藩は地方知行制から俸禄制へ転換したのだが、この史料によると、旧領主との関係も断たれたわけではなかったことを示す。
上坂家文書のうち。しかし、木倉豊信「上坂家文書目録」〔『越中史壇』28(越中史壇会、1964.3)〕、及び同「上坂家文書(続)」〔『富山史壇』33(越中史壇会、1966.3)〕に紹介されている35通には見当たらないが、本史料を含む次の6通が連続で巻子装され、その6通目である。
①年未詳4月4日付前田利光書状(後欠)、②天正7年(1579)11月16日付神保氏張知行安堵状(海老坂藤兵衛宛)、③年未詳7月28日付奥村伊予守書状(宛所不明)、④年未詳6月20日付横山英盛書状(海老坂村五兵衛宛)、⑤年未詳2月11日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)、⑥年未詳5月10日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)。この内、木倉の「上坂家文書目録」に①と②が掲載され、④~⑥は上坂家のあった海老坂村の知行領主であった横山家からの書状である。
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【釈文】
猶以五十里村庄右衛門申談、
宜取持頼申事候、以上、
其元無異事候哉、
然は手前儀就御用、
東武江近々令参向候、
用意之要聊閊申
躰候条、取持可給候、尚
松山助次右衛門等可申述候、
謹言、
監物
五月十日 貴林(花押)
海老坂村
五兵衛殿