寛永十四年十一月七日付横山長知年貢免状(氷見庄海老坂村百姓中宛)
かんえいじゅうよねんじゅういちがつなのかづけ よこやまながちかねんぐめんじょう ひみのしょうえびさかむらひゃくしょうちゅうあて
概要
前田利長の側近・横山長知が現高岡市海老坂村の田地を名押につき、高14.41石、今年一年のみ免除した書状。
長知(1568~1646/ながちか)は後に加賀八家となる横山家2代。通称・大膳。慶長13年(1608)2月に武蔵守、同20年(1615)閏6月に山城守に任ぜられる。
「名押」は「名請」のことか。名請とは、検地にあたり農民が自分の耕作地を認められ、検地帳に名前が登録されることにより、耕作の権利と年貢負担の義務を請け合うこと。
「氷見庄」は現氷見市域。戦国末期から元和4年(1618)まで「氷見郡」、同年より寛文11年(1671)まで「氷見庄」、同年より射水郡に入るが、明治29年(1896)から昭和29年(1954)まで再度「氷見郡」となる。
現高岡市東海老坂の旧家・上坂(こうさか)家文書のうち。木倉豊信「上坂家文書目録(続)」〔『富山史壇』33(越中史壇会、1966.3)〕の32号文書。
本史料を含む次の4通(全て横山長知書状)が連続で巻子装され、その2通目である。
①慶長6年7月7日付横山長知書状(綾子村・加茂村・守山町 肝煎中)、②寛永14年11月7日付横山長知年貢免状(氷見庄海老坂村百姓中宛)、③(慶長6年カ)8月3日付横山長知書状(守山町 小四郎・春四郎・彦左衛門宛)、④寛永8年10月25日付横山長知免相申付状(海老坂村・宇波村・小坂井村宛)。
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【釈文】
当村田地、今度名押ニ付而、見立之上を以、
高拾四石四升壱合、当一作令用捨者也、
寛永拾四年
十一月七日 山城守(花押)(黒印)
氷見庄海老坂村
百姓中