慈恩寺旧境内
じおんじきゅうけいだい
概要
慈恩寺旧境内は山形盆地の西縁中央に位置し,南側を寒河江(さがえ)川(がわ)が東流する。葉山(標高1,462m)の前山群の最も手前の丘陵地を占め,堂塔と前面の院坊屋(いんぼうや)敷地(しきち)の背後に中世の城館群が取り巻き,さらに北へ4km程の地点に山業(さんごう)と呼ばれる修験(しゅげん)の行場(ぎょうば)を有する。本尊(ほんぞん)木造(もくぞう)弥勒菩薩(みろくぼさつ)坐像(ざぞう)の胎内(たいない)経(きょう)奥書(おくがき)から,永仁6年(1298)には少なくとも鳥羽天皇の御願(ごがん)寺(じ)とする伝承が成立していたことが知られる。平安時代後期には,寒河江荘の支配を通じて藤原摂関家の保護を受け,以後,地頭大江氏,最上氏,その改易(元和8年〈1622〉)後は江戸幕府の保護を得た。本堂(弥勒堂,元和4年〈1618〉建築,重要文化財)のほか,多くの仏像や古文書等の文化財を伝え,一切(いっさい)経会(きょうえ)には中世以来,林家(はやしけ)による舞楽(重要無形民俗文化財)が奉納される。中世以来,顕(けん)密(みつ)を兼学し,臨済禅や律宗,時宗等の影響も受けた。江戸時代には,真(しん)言方(ごんがた)学頭(がくとう)の宝蔵院(ほうぞういん)と華蔵院(けぞういん),それに天台方(てんだいがた)別当(べっとう)最上院(さいじょういん)の3カ院と48の坊からなる一山(いっさん)寺院(じいん)を形成した。江戸時代に復興した堂社と院坊屋敷地のたたずまいは,その背後を取り巻く城館群や旧境内地の北端近くに存在する行場とともに,旧境内の様相を良好にとどめている。我が国の仏教信仰の在り方を知るうえで極めて重要である。