塩原の大山供養田植
しおはらのだいせんくようたうえ
概要
塩原の大山供養田植は、太鼓や歌でにぎやかに囃【はや】しながら共同で行う田植である。田植とあわせて、牛馬守護の大山【だいせん】信仰を背景に牛馬供養も行うので大山供養田植と呼んでいる。
広島県比婆郡東城町は同県の東北部で岡山県との県境にあたる。塩原地区は同町北部の山あいの集落である。塩原周辺は農耕とともに砂鉄製鉄が行われ、牛馬は農作業に加えて木炭や鉄の運搬でも重要であった。塩原地区の東南に多飯【おおい】が辻【つじ】山があり、その山頂近くに牛馬守護の信仰を集める鳥取県の大山【だいせん】神社を迎えた大仙【だいせん】神社がある。
農作業のなかでも田植は、機械化が進む前は大勢の人手が必要であった。東城町では何軒かの農家が共同で田植を行った。その田植では、太鼓を打ち田植歌を歌って田植作業を先導する役の者が一人は加わっていた。同地域では、そのように太鼓と歌で囃す田植をタイコタウエやタイコダ、シゴトダなどと呼び昭和二十年(一九四五)ころまで続けていた。また地域の田植の最後に、大地主の田などではオオタウエと呼ばれる田植の締めくくりの祝祭的で大規模な田植があった。大山供養田植は、オオタウエと牛馬供養の大山信仰が組みあわさつた特別な田植である。
塩原の大山供養田植は、田植の終わる時期に適当な田を決めて随時行われてきた。昭和五十年(一九七五)に記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財に選択されてからは昭和五十一年(一九七六)、同五十五年(一九八〇)に行われ、同六十年(一九八五)からは四年目ごとに、塩原地区の石【いし】神社の前の田で公開されている。
この供養田植は、田植踊、牛馬供養、牛による田の代【しろ】かき、太鼓と歌にあわせた田植、翌日の大仙神社へのお札納【ふだおさ】めで構成される。
田植の前日、田の近くに丸太で供養棚【くようだな】を設置する。中央に通路を設けた門のような形で幅八メートル、奥行三メートル、床の高さ二メートルほどである。田に向かって通路の左側が仏事、右側が神事の席になる。苗代【なわしろ】では早乙女たちが苗を取って束ねておく。男性たちは田の畦【あぜ】の一端に土を盛り上げて塚を作り、フクラシ(冬青【そよこ】)の枝と薄【すすき】一二本をさす。田の神を迎える場所でサンバイヤシロと呼ばれる。
当日になると午前九時過ぎに、塩原地区や周辺から二〇頭ほどの牛が公民館に集まり、牛の頭部に赤い太紐を巻いたり、飾鞍【かざりくら】などで飾り付け、その後、牛の行列順を決める。
昼過ぎに田植踊が始まる。天狗面の露払【つゆはらい】、御幣【ごへい】持ち、拍子木【ひょうしぎ】を持った音頭取【おんどとり】、滑稽な仮面を付けササラを持ったササラスリ、白い法被【はっぴ】に菅笠【すげがさ】をかぶり締太鼓を腰に付けたサゲ、そろいの浴衣【ゆかた】姿の早乙女たちが列を作って進み、途中で早乙女たちが輪になって、田植歌とサゲの太鼓にあわせ、田植の動作を取り入れた所作で踊る。
田植踊が終わると、飾り牛が列を作って供養棚に向かう。棚では神職の大祓【おおはらい】と僧侶の回向【えこう】が行われている。棚をくぐるときに牛主【うしぬし】は神職から小さな御幣を、僧侶から供養札【くようふだ】と大般若経【だいはんにゃきょう】一巻を授かって牛に付けて田に向かう。田にはいった牛の列は、複雑に決められた経路を歩いて代かきを行う。
代かきが終わると、絣【かすり】の着物に手拭【てぬぐい】かぶりの早乙女やサゲたちが、田植踊と同じ行列に、新たに少女三名を加えて供養棚に向かう。棚で少女たちは、神職からサンバイナエと呼ばれる稲束を一束ずつ、早乙女の頭取【とうどり】三名は小さな御幣を授かる。棚をくぐってサゲと少女は田の畦に並び、早乙女たちは田の中にはいってサゲと向かいあって横一列に並ぶ。早乙女の頭取三名が、少女からサンバイナエを受け取って他の早乙女たちに分配する。最初のひと植えは、この苗で行うことになっている。
苗を等間隔に植えるための見当として、早乙女たちの手前の田の上に、適切な間隔に目印を付けた綱を横一杯に張る。三名の男性が、綱の両端と中央につけた棒で綱を引きあいながら田に押しつける。音頭取の拍子木の合図で田植が始まる。サゲの太鼓にのせて音頭取が歌の前半を歌い、後半を早乙女たちが歌いながら苗を植える。一つの歌で、その列の田植が終わると、綱を一幅分下げ、早乙女たちが一歩後退し、次の歌に移って苗を植えていく。ササラスリは、早乙女の腰をササラの棒で突いたりして笑いを誘う。