平成新山
へいせいしんざん
概要
長崎県島原半島にある雲仙は、約1,300年前の肥前風土記にもその記述が見られる古い温泉地である。島原半島は、東は島原湾を隔てて熊本と向き合い、西は橘湾(千々石湾)に面し、南は早崎瀬戸を隔てて天草と向き合っている。島原半島の中央部に位置する現在の雲仙火山(雲仙岳)の活動が始まったのは、およそ50万年前である。雲仙火山は遠くから見るとひとつの山に見えるが、実際は、普賢岳(1359m)、妙見岳(1333m)、野岳(1142m)などの溶岩ドーム(溶岩円頂丘)によって形成される複成火山である。今から約200年前、 寛政4年(1792)普賢岳が噴火した。噴火が終わった後、島原市街の背後にそびえ立っている眉山が大きな地震とともに大崩壊した。岩なだれは島原城下の半分近くを埋め、さらには有明海に流れ込んだ。そのため大津波が発生し、 対岸の肥後(熊本)を含めて、約15,000人が死亡する我が国最大の火山災害が発生した。災害史上有名な「島原大変肥後迷惑」である。
平成2年11月17日、雲仙火山の最高峰である普賢岳は、後に平成新山の誕生を促すことになる198年ぶりの噴火を開始する。噴火に先立つ1年ほど前から、普賢岳の西側にある橘湾の地下10km程度を震源とする群発地震が発生し、震源が浅くなりながら東に移動し、火山性微動の発生も観測されていた。噴火は、普賢岳山頂から東へ600mほどの普賢神社付近の九十九島火口と地獄跡火口での水蒸気爆発から始まった。平成3年5月20日、地獄跡火口に溶岩ドームが出現する。地下のマグマ溜まりから次々と供給される粘性の高いデイサイト質溶岩は、最盛期1日に30万‰から40万‰にも達した。溶岩ドームは上に成長し、あるいは東斜面に溶岩ローブとして舌状にせり出していった。溶岩ローブの先端は不安定になり崩壊し、火砕流を発生させた。同年6月3日に発生した火砕流は、水無川沿いを猛スピードでかけ下り、下流の北上小場地区を瞬く間に焼き尽くし、死者・不明43名の犠牲者を出した。火砕流の発生は延べ9,432回にも上り、消失した家屋は820棟にもなった。谷沿いに堆積した大量の火砕流堆積物や火山灰は、梅雨時や台風時の大雨で土石流となって流れ下った。土石流は、火砕流が到達しなかった地域にも及び、民家や橋、道路、鉄道を押し流し、市街地や耕地を土砂で埋め尽くした。平成7年5月25日、火山噴火予知連絡会は、足かけ5年にわたった噴火活動に対し、終息宣言を行う。この間に成長した溶岩ドームは平成新山と名付けられ、標高は、雲仙火山の最高峰であった普賢岳を上回る1,486mに達した。
噴火を繰り返し、時には大きな被害を与えてきた普賢岳は、美しい姿や普賢岳を中心とした豊かな自然、さらには温泉や湧水などの恵みをもたらしてきた。生成が目撃された火山活動の証として、また我が国を代表する火山現象として、天然記念物に指定し永く保存を図ろうとするものである。