阿波人形浄瑠璃
あわにんぎょうじょうるり
概要
阿波人形浄瑠璃は、徳島県の各地に伝承されている義太夫節【ぎだゆうぶし】による三人遣【さんにんづか】いの人形芝居であり、かつては各地の農村舞台で地元の神社の祭礼などの機会に上演されてきた。
阿波では、近世に阿波・淡路を領国とした蜂須賀【はちすか】家が人形芝居を保護奨励したことにより、先進地である淡路の人形座が徳島城下をはじめとする各地で盛んに興行を行ったことが知られている。阿波人形浄瑠璃は、これらの淡路の人形座の活動の影響を受けて、各地で素人【しろうと】による人形座が生まれ、成立したものと考えられる。その起源は定かではないが、阿波人形師の祖とされる馬之瀬駒蔵【うまのせこまぞう】が阿波に移住し活動した時代が享保年間(一七一六-三五年)と伝えられることから、少なくとも一八世紀前半には阿波の人形座の活動が始まっていたと思われる。
阿波人形浄瑠璃の絶頂期は明治中ごろといわれ、著名な人形師である初代天狗【てんぐ】屋久吉【ひさきち】の明治二十年ころの注文帳によれば、当時県内に七〇以上の人形座が活動していたことが記録されている。これらの座は、自らの集落の祭礼等に上演するのみならず、農閑期には他村へも興行した。その後昭和期には、映画などの新たな娯楽の登場や戦争の影響などで急速に衰えた。しかし戦後は昭和二十八年の(財)阿波人形浄瑠璃振興会の結成なども契機となり、現在ではいくつかの座の活動が復活しており、祭礼での奉納上演のほか、振興会主催の大会など各種催し物で公開されている。
阿波人形浄瑠璃の特徴としては、第一に人形の首【かしら】の大型化があげられる。人形浄瑠璃文楽【ぶんらく】の首が四寸型を基本とするのに対し、阿波人形浄瑠璃では六寸型が基本となっているが、これは明治初年から中ごろにかけて、農村舞台での効果などを考えて天狗屋久吉をはじめとする人形師たちにより加えられた工夫であると思われる。さらにこの首の使用が広まるにつれ、それを生かした大振りな人形操作による独自の演出法等も生まれ、西日本における地方の代表的人形浄瑠璃として、四国・九州の他地域の人形浄瑠璃にも大きな影響を与えた。なお伝承演目としては「傾城阿波鳴門【けいせいあわのなると】 巡礼歌【じゆんれいうた】の段」を別にすれば、大振りの人形と演出に適した時代物が多い。
以上のように阿波人形浄瑠璃は、首の大型化など地方独自の工夫で展開した人形浄瑠璃であり、わが国の芸能の変遷の過程を示すものとして特に重要である。
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国指定文化財等データベース(文化庁)