絹本著色石清水八幡宮縁起絵(伝大山崎離宮八幡利益縁起)
けんぽんちゃくしょくいわしみずはちまんぐうえんぎえ
概要
本図は、尾張徳川家の依頼を受けて寛政八年(一七九六)五月に住吉広行がしたためた極書【きわめがき】から、大山崎離宮八幡利益図として伝えられてきたが、近年になって、画面やや下方右側の牛車後方の建物、およびその左に描かれた二基の卒塔婆が根津美術館の「石清水八幡曼荼羅図」中の高良【かわら】社に景観が一致することから、これが石清水八幡の縁起を描いたものであることが明らかになった。石清水八幡の景観を描いた曼荼羅は知られているが、本図のようにその縁起を絵画化したものは今のところ他にない。
石清水八幡宮は、大安寺の僧行教が貞観元年(八五九)に宇佐に参籠した際に都の近くに移座すべき旨の託宣を受けて上京したところ、山崎離宮付近で石清水男山に移座すべしとの示験を再び得て建立されたのがその始まりとされる。画面は上下およそ七センチほどを区画し、樹木風の地模様に、上部中央には金の日輪を、下部中央には白色の月輪を配した描表装【かきびようそう】とし、上方に託宣を受けた宇佐と思われる建物を配した風景、その下段に大きく回廊に囲まれた石清水八幡宮の社殿を、さらに下方に高良社をはじめとするその他の景観が描かれ、各所に縁起にまつわる場面が配されている。本図に即した縁起書が未【いま】だ発見されていないので全ての場面の内容を明らかにすることができず、今後の究明が待たれるところであるが、行教と考えられる僧の登場する場面が最も多く、そのうちいくつかは、現存する各史料に伝えられる縁起説話から内容の推定できるものがあり、また、離宮八幡宮のもっとも重要な祭儀、「日使頭祭」を表すと思われる場面も見られる。本図において豊富に伝えられている縁起は、複雑な成り立ちをもつ八幡信仰を解明する手がかりとしても注目すべきものといえよう。彩色の剥落がかなりみとめられるものの、描写は細密で、建物の表現にも破綻がなく、南北朝時代の作としても鎌倉時代をさほど遠ざかる時期の作ではなかろう。