絹本著色日吉山王宮曼荼羅図
けんぽんちゃくしょくひえさんのうみやまんだらず
概要
本図は、日吉山王社の神体山である八王子山を中央に大きく表し、その麓に展開する各社殿を、背後には琵琶湖から雪を戴く比良山系に至る広い景観を俯瞰構図により描いたものである。画面上方には日吉山王二十一社の本地仏および祭神の画像を、本地仏の種字、本地仏名、社名とともに整然と並べて表す。その配置は概ね上七社を中央に、その左右に中七社、さらにその外側左右に下七社を配するものである。
日吉山王信仰の曼荼羅は、これまでに七件が重要文化財に指定されているが、滋賀・延暦寺本、島根・鰐淵寺本、滋賀・西教寺本、滋賀・浄厳院本は本地仏像または神像を左右相称の基本構図に基づいて整然と配するもの、東京・霊雲寺本、滋賀・百済寺本は自然景のなかに本地仏像あるいは神像を配するものである。これに対して自然景と社殿を描く宮曼荼羅形式の作品として最も制作期の古い奈良・大和文華館本(近畿日本鉄道株式会社所有)があるが、大和文華館本は上七社のみの社殿を実際の配置に配慮しながらも、大きく正面観で描くものである。対して本図の、視点を遠くとり、俯瞰構図によって神体山たる八王子山を中心とする雄大な自然景を細密な描写によって表現する点は、日吉山王曼荼羅図の古い作例には稀な大きな特徴といえる。基本的構図を本図と同じくする作品に室町期の制作とみられる延暦寺蔵・日吉神社社頭絵図などがあり、本図の構図が以後の日吉山王宮曼荼羅図に継承されていったことがうかがわれる。
本図には旧表背貼付紙の墨書が付属しており、三度にわたる修理銘などが記されているが、最も古い「日輪院長瑜」の文安四年(一四四七)の裏書には「西塔西谷」から本図が相伝されたことを述べる。この記述には干支に誤りがあり、また比叡山西塔には西谷はないことから、西塔東谷もしくは東塔西谷の誤りと推測されるなど、当初の裏書を写した際に誤写があったと考えられるが、他の長瑜による古画修理の事例からみて、比叡山のいずれからかこのころに本図が相伝されたという内容自体は、信憑性が高い。
雪山や山岳の描写などにやや平明化が見られ、本地仏、祭神を並べる形式は垂迹曼荼羅としては整理された形式と考えられる一方、細部の社殿の描写はきわめて繊細な優れたもので、鎌倉時代末期以降の春日宮曼荼羅図などに共通する画風がうかがわれる。仏画としての本地仏や祭神の描写とも併せ、制作期は南北朝時代を下らないと考えられよう。
制作期の遡る日吉山王宮曼荼羅図のなかでは、自然景を主体とする類例の少ない遺例であると同時に、雄大かつ細密な優れた景観の描写は、やまと絵系の山水表現として貴重なものである。また、本図は図上部の神像の写しとともに享保七年(一七二二)以前に編纂された『日吉山王権現知新記』に収録されており、その時点では比叡山横川鶏頭院の厳覚が所持していたことが記される。長瑜裏書とともに、比叡山において長く伝えられてきたことが知られる歴史的意義も併せ、貴重な作品といえよう。