山科本願寺跡及び南殿跡
やましなほんがんじあとおよびなんでんあと
概要
山科本願寺は、浄土真宗中興の祖である蓮如が、本願寺再興のため、山科の地に文 明10年(1478)から建設を開始したものである。
山科本願寺は、江戸期の絵図によると御影堂や阿弥陀堂等、本願寺の堂舎が建ち並ぶ「御本寺」、法主の家族や坊官達の屋敷がある「内寺内」、寺に関わる職人や商人等の町衆の居住区である「外寺内」の3つの郭から構成され、それぞれの郭と外周は、土塁と濠により、厳重に区画することによって、寺内町と呼ばれる独立した空間を築き上げていた。その寺域は、古図などから東西800m、南北1,000mの規模があったものと考えられ、極めて城郭的要素の強い寺内町を形成していたことがわかる。
延徳元年(1489)、75歳になった蓮如は、法燈を子の実如に譲り、本願寺東の地に隠居寺を設け、住まいとした。この地は、実如の住む北殿に対して南殿と称さ れた。南殿は、「御在世山水御亭図」(光照寺蔵)によると、土塁と濠に囲まれ、防御 的な面が強い施設、200m四方の規模を持つていたものと推定される。また一方、敷地内には園池が設けられ、築山を構え、持仏堂・山水亭・台所などを備えた風雅な建物であったこともわかる。
このように山科本願寺は、兵火にさいなまれていた京の都に隣接する山科の地に、仏法の支配する独自の世界を創出しようとしたものであったが、天文元年(1532)に六角氏と法華宗徒の攻撃により焼失した。
山科本願寺跡は、現在は京都市の公園内に残されている巨大な土塁と民有地内に土塁跡が一部確認されるにすぎない。公園内に残された土塁は、内寺内と外寺内を画する東北隅の部分であり、総延長100m余、高さ9mを測る。当該地の地名は「様子見町」といい、この土塁の見張り台としての機能を示しているものと思われる。
南殿の地は、真宗大谷派光照寺の境内地と真宗大谷派直轄の地及び民有地として推移してきているが、古図にある築山・池・土塁・濠などが現在も残されている。平成13年度、当地においてマンション建設が計画され、発掘調査の結果、現在残っている土塁・濠に続く部分の遺構と掘立柱建物・柵列・溝などが検出され、当時の遺構が良好に保存されていることが確認された。
このように山科本願寺南殿跡及び土塁跡は、土塁と濠に囲まれた強固な防御施設を備えた中世環濠城塞都市として、かつ一向一揆という歴史上重要な一揆に関係した蓮 如の遺跡として、我が国の歴史を知る上で貴重な遺跡であり、史跡として指定し、保護しようとするものである。