大内氏遺跡
附 凌雲寺跡
おおうちしいせきつけたりりょううんじあと
概要
大内氏が中世の政治、経済史上に、はたまた文化史上に占めた位置の極めて高かったことは更めて説くまでもないことである。
大内氏が山口に居を構えたのは南北朝時代弘世の時といわれる。山口は東北西の三方に山を連ね、南に口を開く盆地状の小平野であって、その間を椹野川が南へ貫流し、中世豪族拠地の典型的な地形を示している。街区また往時を偲ばしめるものがあるが、指定の対象は館と城との跡である。
館は、確証を欠く憾はあるが現竜福寺境内といわれ、その南辺を東西に通る道路の大殿小路(大路)の名は、この名残とされている。竜福寺は、もと白石にあり、義隆(竜福寺殿)の庇護した寺であって、毛利隆元が館跡に移建したものと称されている。方形状の地域であって、周辺に土塁、堀など、なお、その旧態を偲ぶことができる。この北に近く築山の跡がある。築山は教弘(築山殿)寛正六年歿の営むところといわれ、当時の記録にも屡々その名が現われるが、別墅の如き館であったと思われる。いま、域内に八坂神社元治六年移建、築山神社明治二年移建があるが、北西隅に矩の手に土塁が遺存するのは、居館の位置、規模を示す遺構として極めて貴重で、江戸時代の末まで苑池のあとがのこっていたといわれる。
大内氏は、その盛時、他に見るが如き城郭は設けなかったといわれるが、大内氏最後の義長は、毛利氏の来襲に備えて、山口市街の西に聳える標高338メートルいまの鴻峯に築城した。弘治2年春のことであるが、翌3年3月、毛利氏来攻の際、一時これに拠ったが、守り難きを察して長門へ遁れ落城した。高嶺城といい、高嶺はまた高峯、鴻峯とも書かれ、岳山とも称された。急峻な崖をめぐらした独立状の丘陵であって、その頂上部に、稜線上に階段状に郭を連ね配し、その最奥部、最高所に本丸を設けている。本丸は石垣をめぐらし、郭の所々にも石垣がある。眼下に山口とその周辺を収め、中世的山城として典型的なものである。大内氏滅亡後、山口は毛利氏の手中に入り、毛利氏もこの城を使用し、城番を置き、元和元年に至って廃した。大内氏は完成しないうちに放棄したといわれ、にわかに現存の遺構のすべてを大内氏に帰することはできないが、地形等より見て大内氏の旧を十分偲ぶことができる。
凌雲寺跡は、山口市街の北西、吉敷川上流の山間部にある。寺は義興(凌雲寺殿)の開基なるべく、開山は3庵桂悟である。舌状をなして南に延びる台地上に営まれたもので、注意すべきはその惣門跡と称せられ遺構である。地域の南端部において台地を東西に横切るその長い石垣は豪壮雄大であって、寺院としては異例に属する。寺の位置、地形等から見て、盖し有事に備えての一種の城塞をも兼ねたかと察せられ、大内氏時代の特異な遺構として併せ保存すべきものである。
通観するに大内氏滅亡後、その遺構の衰滅に赴くのは時の勢であるが、いまここに大内氏の動静の根本をなすべき遺跡の略々たどり得られることは学術上貴重である。