小山氏城跡
鷲城跡
祇園城跡
中久喜城跡
おやまししろあと
わしじょうあと ぎおんじょうあと なかくきじょうあと
概要
小山氏は鎌倉期以来の下野守護であり、中世における下野最大の豪族である。〓(*1)園城跡、鷲城跡はこの小山氏の主要な居城跡として、また康暦2年(1380)から永徳2年(1383)にかけての小山義政の乱における合戦の場として、平成3年に史跡指定がなされている。
中久喜城は江川の右岸台地上にあり、小山氏の結城方面への備えの城である。小山義政の乱において小山方の拠点となったとして史料にみえる鷲城、岩壺城、新々城、〓(*1)園城、宿城の5つの城のうち、岩壺城に該当すると考えられる。岩壺の地名そのものは残らないが本丸にその上で飛べば響くという岩もある。城跡はJR水戸線で分断されてはいるが、台地先端、城の内とよばれる地におよそ100メートル×120メートルの主郭を構え土塁をめぐらし、さらにその北方西城にも台地先端に土塁を構えている。その東に万年寺の跡があり、万年寺くるわとよばれている。〓(*1)園城にも同じ名の万年寺があり、小山高朝の菩提寺である。万年寺はある時期に中久喜城から〓(*1)園城に移動したと考えられる。
なお、「結城御代記」(嘉永5年(1852)の成立)によれば、天正18年(1590)、小山高朝の子で、結城政勝の養子となった晴朝が「中茎栃井城」に移ったと記されている。
このように中久喜城は小山氏の城として重要な城であり、〓(*1)園城とも鷲城とも密接な関連をもつ城である。
また平成3年に指定された2つの城のうち〓(*1)園城跡の上段藪の東、南久保ぐるわの土塁の一部、また、鷲城跡の本丸の一部が未指定であった。
よって〓(*1)園城跡、鷲城跡の一部を追加指定するとともに、小山氏城跡に中久喜城跡を追加指定して、その保存を図るとともに、史跡指定名称を変更する。