田和山・神後田遺跡
たわやま・じごでいせき
概要
田和山遺跡は,宍道湖を北に臨む比高差36mの独立丘陵上に立地する,弥生時代前期後半から中期後半の集落跡である。平成9年から12年にかけて,市立病院建設に伴い松江市教育委員会により発掘調査が行なわれた。その結果,三重の環濠は巡るものの住居は環濠の外に分布するという,これまでに例のない構造の環濠をもつ集落であることが判明し,建設計画を変更して現状保存されることとなった。
環濠は南北にのびる独立丘陵の北端部の頂部を取り囲んでいた。前期後半の段階では一条で,全周せずに3ヶ所の掘り残しがあったが,中期に環濠は三重となる。内側の環濠で囲まれた範囲は,2,250m2で,環濠の規模は最大で幅7m,深さ1.8mを測る。濠と濠の間と一番外の濠の外側で,部分的ながら土塁の痕跡も確認されている。
頂部では多数の柱穴が検出された。弥生中期には頂部全体を柵が取り囲み,その中央部に掘立柱建物と考えられる施設が存在していたと想定され,前期後半にも,同様の施設があったと考えられている。
竪穴住居は中期のものが,11棟検出された。すべて環濠の外にあり,10棟が北側に集中する。また,住居周辺では斜面に平坦部を確保するために作られた段状の遺構が,12基見つかったが,やはり,中期のものである。このように,遺跡が存続した期間を通して環濠内に居住域がなかったという点が,この遺跡の大きな特徴である。
遺物には各種の土器と石器がある。注目されるのは環濠内から出土した3000点を越える自然石で,投弾としての機能も想定されている。このほか打製石鏃が数多く出土し,磨製石剣なども確認されている。
弥生時代の環濠集落といえば,軍事的・防御的性格や拠点的性格をもった集落だと考えられてきた。しかし,田和山遺跡の場合,武器は出土するものの居住域は環濠の外に広がっていたという点で通常の防御性を有する環濠集落とは構造が異なっている。田和山遺跡は,環濠をもつ集落であっても,これまで発見された環濠集落とは違う性格であったとみられ,弥生時代の集落研究,とりわけ,集落の構造や環濠の性格を知る上で学術的価値はきわめて高い。よって,史跡に指定し保護を図ろうとするものである。