年未詳8月1日付前田利常書状(伊藤内膳・長屋七郎右衛門宛)
ねんみしょうはちがつついたちづけ まえだとしつねしょじょう いとうないぜん ながやしちろうえもんあて
概要
加賀前田家3代当主・前田利常が高岡町奉行の2名、伊藤内膳と長屋七郎右衛門に宛てた書状である。大意は「高岡町中より目録の通り(祝儀が)献上された。その心がけは大変素晴らしいと申し伝えよ。」となろうか。
伊藤の高岡町奉行在任期間は1631~52年、長屋は1644~58年であり、その重複期間である1644~52年頃が本史料の年代と考えられる。
利常の署名の下に黒文方印が据えられる。これは利常が使用した「蝶」の印である(『加賀藩史料』編外備考)。
文中の「目録」の内容は不明であるが、贈られた理由は日付から「八朔」(4)と考えられる。
利常はこの時期、一国一城令(1615年)の後、寂れゆく高岡を城下町から商工都市へと転換を図る政策(5)を次々と打ち出しており、高岡町人は利常に対して多大なる恩義を常日頃から感じていたであろうことがうかがえる。その政策の実行は、能吏として知られ、利常の信頼も大きかった伊藤内膳の21年余にもわたる高岡町奉行時代にも推進され、利常と並び、内膳も高岡町人から深く敬慕されたという。
ちなみに寄贈者の宮野氏の先祖は藩の足軽であったと伝わる。また宮野一平は明治後期に高岡市末広町に料理旅館「宮野梅松園」を創業したが、その地は元、伊藤内膳の屋敷地であったといい、この書状もその所縁で所蔵されていたと伝わる。
本史料の状態は良好である。
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【釈文】
従高岡町中目録
之通上之相心得
可申聞者也、
八月朔日 利常(印)
伊藤内膳
長屋七郎右衛門
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【注】
(1)前田 利常 まえだ としつね
生没年:1594(文禄2)年11月25日~1658(万治元)年10月12日
江戸時代の外様大名。加賀(金沢)藩第3代藩主,前田利家の4男。母は側室寿福院。慶長10(1605)年兄利長を継ぎ藩主となる。19年兄の死後その隠居領も合わせ領し,寛永11(1634)年幕府より加賀,能登,越中3カ国で119万2760石の領知判物を受ける。徳川幕府との緊張関係が残っていた時代で,幕府より少しでも謀反の疑いをかけられないよう隠忍を保ち,寛永8年幕府が金沢藩の軍事力強化の疑いを持ったとき,自ら江戸へ出向き弁疏してことなきを得ている。また同10年には嫡子光高の室に徳川家光の養女阿智姫(水戸徳川頼房の娘)を迎え,12年には3女満姫を家光の養女として広島藩主浅野光晟に嫁がせるなど幕府との融和を図っている。その治政は城下町金沢の整備や元和の加賀,能登の総検地のほか,寛永4年から塩の専売制をしき,特に能登の浦々での塩生産を高め,その塩年貢の代償に米のとれない能登に塩手米として藩米を貸し与えている。16年家督を光高に譲り隠居し,次男前田利次を越中国富山藩10万石,3男前田利治を加賀国大聖寺藩7万石に分封している。正保2(1645)年光高の急死後,孫の綱紀が3歳で家督を継ぐと後見として再び藩政を握り,金沢藩農政の基本となる改作仕法を慶安4(1651)年から実施し,明暦2(1656)年に村御印を各村に与えほぼ完成させている。これにより村方の税率を一定化し藩財政を安定化させる一方,検地による隠田摘発や辰巳用水の開削および新田開発により年貢増徴を図った。また兵農分離を貫徹させ,十村制度の強化により有力上層農民を十村に任命し,領内支配組織の末端に組み込んでいる。家臣に対しては地方知行制を廃止し,俸禄制として藩による領内の一元的支配と農民の生産基盤確立に意を用いた。(和泉清司)
(『朝日日本歴史人物事典』)
(2)伊藤 内膳 いとう ないぜん
生没年:1594(文禄2)年月日~1669(寛文9)年月日
加賀藩士。諱は重正。内膳は通称。伊藤家は大和国(奈良県)を本国とし、同国宇多郡主の甲斐守(妻は小堀遠州の姉)を元祖とする。甲斐守の二男内膳が元和5年(1619)、遠州の推挙により前田利常に仕えて1,500石を賜わり、のち3,300石となった。寛永以後、馬廻頭・高岡町奉行(越中目安場奉行・砺波射水郡奉行兼務)・算用場奉行・検地奉行等に累遷し、万治3年(1660)人持組に列し、寛文4年(1664)退老して意休と号した。
内膳は利常の信任が厚く、高岡町奉行・西村右馬之助が寛永8年(1631)に御旗奉行に転任した後を襲って、承応元年(1652)世子綱紀附を仰せ付けられるまで、実に20年を越える異例の長期在任で、その間に、城下町から経済都市に更生する高岡町の基礎を確立した。町年寄以下町役人の職制を改定し、新たに町附足軽20人を置き、高岡に新設された目安場の奉行を兼ね、高岡町の総検地を行い、また、瑞龍寺・繁久寺・利長墓所の造営を援け、さらに、困難な千保川の改修に尽力する等、実に高岡建設の恩人である。従って、広く上下の信望を集め、町民から深く敬慕されて、古記録にも「内膳様」の名が至る所に現われる名奉行であった。
高岡町奉行の後、内膳は利常に金沢に呼び戻され、算用場奉行に抜擢され、利常晩年の農政改革「改作法」(1651~56年)の実務のトップとしても活躍した。 (『石川県姓氏歴史人物大辞典』。『加能郷土辞彙』。『高岡市史』中巻。木越隆三「高岡町奉行・伊藤内膳/利常から重用、改作法を推進」、富山新聞「ふるさと探訪紙上講座」2024年5月25日)
(3)長屋 七郎右衛門 ながや しちろうえもん
生没年:1594(文禄2)年月日~1664(寛文4)年
加賀藩士。諱は吉道(吉通)。七郎右衛門は通称。長屋家は前田利長に仕えた大学に始まる(1,400石)。大学の子は七郎右衛門吉継(1,200石、1639年没)で吉道の父。吉道は元和5年(1619)、新知300石を受け、のち800石に至る。高岡町奉行(1644~58年在任、当時700石)・足軽頭・金沢町奉行を歴任した。 (『加能郷土辞彙』)
(4)八朔 はっさく
陰暦八月一日。またこの日の行事。田実(たのむ)の節供ともいい、本来は収穫に先だつ穂掛(ほがけ)祭で、農家で、その年に取り入れした新しい稲などを、日ごろ恩顧を受けている主家や知人などに贈って祝った。のち、この風習が流行し、この日に上下貴賤それぞれ贈り物をし、祝賀と親和とを表わすようになった。朝廷では鎌倉時代後期から行なわれ、室町時代には幕府にも広まった。また、近世では、天正一八年(一五九〇)のこの日に、徳川家康が初めて江戸城にはいったところから、武士の祝日の一つとなった。大名・小名や直参の旗本などが白帷子(しろかたびら)を着て登城し、将軍家へ祝辞を申し述べる行事が行なわれていた。八朔の祝い。八朔の礼。《季語・秋》 (『精選版 日本国語大辞典』)
(5)利常の城下町から商工都市への転換政策
高岡は一国一城令(1615年)の後、相次いで町人が離散し寂れつつあった。そこで利常は以下の政策を次々と打ち出し高岡再興を図った。
・1615~24年、町政組織の改善。
・1620年10月2日、高岡町人の他所転出禁止令。
・1635年、布御印押人の設置(麻布の集散地とした)。
・1646年、利長33回忌にあたり前田利長墓所を造営。
・1652~55年頃、瑞龍寺建立開始(1663年竣工)。
・1654年、御荷物宿・祠堂銀裁許・各町に組合頭(町頭)・地子肝煎を設置。
・1657年、魚問屋の設置。
・この頃、塩問屋の設置。高岡城跡(古御城)内に御収納米蔵(藩への年貢)と御詰塩蔵(藩へ納める塩)設置。
・(利常死去(1658年)後)1671年、締綿(精製綿)市場の設置。
(『高岡市史』中巻。『たかおか -歴史との出会い-』)