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年未詳6月3日付 前田利常書状(勝興寺14世光昌院宛)

ねんみしょうろくがつみっかづけ まえだとしつねしょじょう しょうこうじじゅうよんせいこうしょういんあて

概要

年未詳6月3日付 前田利常書状(勝興寺14世光昌院宛)

ねんみしょうろくがつみっかづけ まえだとしつねしょじょう しょうこうじじゅうよんせいこうしょういんあて

文書・書籍 / 江戸 / 富山県

前田利常  (1594~1658)

まえだとしつね

富山県高岡市

年未詳(1646~58年頃)

紙本・墨書

縦19.8㎝×横56.3㎝

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-244

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

加賀前田家3代当主・前田利常(小松中納言※1)から勝興寺14世(9世とも)住持・光昌院(良昌※2)宛の書状である。
 内容は利常が小松城へ帰った祝いに贈られた見舞状、及び団扇と肴に対する礼を述べている。そして、先日まで体調を崩していたと聞いた利常は光昌院に「御養生専一候(せんいつにそうろう)」と気遣いをみせている。
 年代は書かれていないが、本願寺12世准如6男の光昌院が1646(正保3)年に勝興寺に入って以降、利常が死去する1658(明暦4)年までの間は確かである。
 利常は1642(寛永19)年、老朽化甚だしい勝興寺本堂に大修理を施し、4年後に光昌院を同寺14世住持として迎えた。そして翌1647年9月、同寺に寺領125石を加増し、計200石とした(加賀藩内で唯一の浄土真宗寺院に対する寺領付与)。更に1649(慶安2)年2月、利常は光昌院に養女つる(重臣神谷(横山)長治娘)を入輿(にゅうよ)させ、200石の化粧田(けわいでん/終身給付)も与えている(前田家と初の縁組)。これらから利常の勝興寺、ひいては本願寺との繋がりを持つことに対する並々ならぬ思いがうかがえる。
 本史料からはお互いを思いやる利常と光昌院との強い繋がりうかがえる。
 ちなみに、本史料は現高岡市内島の十村・五十嵐家の旧蔵史料と伝わる。

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【釈文】
為帰城御見舞御
使札、殊団扇并肴
贈之怡悦之至候、
此間御煩敷由御養生
専一候、猶追而可申述候、
恐々謹言、
     小松中納言
六月三日 利常(花押)

 光昌院
   御返報

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【注】
※1 前田 利常(まえだ としつね) 1594(文禄2).11.25~1658(万治元).10.12
 江戸時代前期の大名。前田利家の4男。慶長6年将軍徳川秀忠の娘子々(ねね)姫(3歳。のち珠(たま)姫と改名)と結婚。10年兄利長の隠居で加賀金沢藩主前田家3代となり、松平姓をゆるされる。一時幕府から謀反の嫌疑をうけた。寛永16年長男光高に家督をゆずり、次男利次を富山藩に、3男利治を大聖寺藩に分封。5代藩主綱紀を後見し、農政改革のため改作法を実施。享年66。初名は利光。
(「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

※2 光昌院(こうしょういん) 1625(寛永2)~1681(延宝8).4.2
 現富山県高岡市伏木古国府の浄土真宗本願寺派・勝興寺14世(9世とも)住持。諱は円周、法名は良昌。光昌院は号。西本願寺12世宗主准如の6男。同寺13世宗主良如の弟。1636年得度。勝興寺13世准教(昭見)の養子となる。1646(正保3)年4月16日に同寺に入寺し、法印・大僧都となる。同寺翌年9月、利常により同寺に寺領125石が加増された(計200石)。この頃、勝興寺の大広間(対面所)が建造された。1649年2月、利常養女つる(重臣神谷(横山)長治娘)。玉玲院広喜)を娶り、4男2女を設けた。この年、高岡鴨島町に勝興寺通坊(掛所、支坊)を設置した(現教恩寺)。またこの頃、勝興寺は越中の真宗を統括する「触頭」として藩のキリシタン禁制を指導している。承応年中(1654年頃)、京都興正寺が西本願寺派からの分派独立問題の際には、宗主良如の代理として幕府で理非を弁じて分派を留め、老中・寺社奉行らを感服させた。この時、幕府により由緒ある勝興寺の黒印地(前田家の認可)を朱印地(幕府の認可)への格上げが伝えられたが辞退した。1671年、表書院(松の間)と奥書院(金の間)を建造。またこの頃、下段の間・花鳥の間並びに式台(鉄砲の間とも)も建造するなど勝興寺の発展に尽力した。享年57。
(『雲龍山勝興寺系譜』荻原 樸編、塩田幸助発行、大正2年再版。
『重要文化財勝興寺本堂落慶記念 勝興寺宝物展図録』高岡市教委文化財課編、勝興寺等発行、平成17年。
『雲龍山 勝興寺文書目録』(財)勝興寺文化財保存・活用事業団、平成24年)

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