年未詳9月24日付 本願寺光円書状(前田利常宛)
ねんみしょうくがつにじゅうよっかづけ ほんがんじこうえんしょじょう まえだとしつねあて
概要
浄土真宗本願寺派(西派)13世・光円(良如)(※1)から前田利常(小松中納言)(※2)宛の書状である。
意訳すると「先日こちらの少進(下間仲此カ)(※3)へ大変手厚いお見舞いをして頂き、殊の外満足しております。ますます勝興寺(弟・良昌(※4))のことを頼み入ります。まず御礼として取りあえず書状を以て申し上げます。そのうちまたお便りいたします。」となろうか。
光円が勝興寺(弟)をますますよろしく頼むと利常に直接頼んでおり、前田家を頼りにしていることがうかがえる。
また利常は寛永19年(1642)、大破した勝興寺本堂に大修理を施した。正保3年(1646)には、光円の弟・良昌(同12世准如六男)を勝興寺14世とし、翌年寺領125石を加増(計200石)。慶安元年(1648)には勝興寺を藩内の触頭とし越中真宗西派寺院を統制させ、翌2年には養女つるを入輿させて化粧田200石も付与した。このような利常の勝興寺への優遇は、連枝・録所として本願寺内で高い地位を誇る勝興寺の威光をもって、領内のキリシタン、及び一向一揆が盛んであった当地真宗寺院の支配統制を強固にすることも考えられたのではなかろうか。
ちなみに、当館には「年未詳6月3日付前田利常書状(良昌宛)」も所蔵している。
また本史料は現高岡市内島の十村・五十嵐家旧蔵の一連の史料と伝わる。
本史料は元は折紙であったものを中央で切断し横長に継がれたものと思われる。
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【釈文】
先日其元少進
御見廻申候
刻御熟意之段
承、別而満足申候、
弥勝興寺儀
頼入申候、先
為御礼不取敢
以書中申達候、
猶期後音之時候、
恐々謹言、
本門
九月廿四日 光円(花押)
小松中納言殿
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【注】
※1 本願寺 光円(ほんがんじ こうえん) 慶長17年(1613)12.7~寛文2年(1662)9.7
江戸時代前期の僧。浄土真宗西本願寺(本願寺派)13世(在位1630~62年)。法名は良如、諱は光円、幼名は茶々丸、院号は教興院。同12世准如(じゅんにょ)の次男。学寮(現龍谷大学)をひらくが、宗義論争が原因で廃止となる。大谷本廟(ほんびょう)を修築し、親鸞四百回忌法要をいとなんだ。享年51。京都出身。1646年、弟(准如6男)良昌(1624~81)は勝興寺14(9)世となり、1649年、良昌には前田利常養女(神谷長治娘つる)が入輿した。
(「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」、「高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ」)
※2 前田 利常(まえだ としつね) 文禄2年(1594)11.25~万治元年(1658)10.12
江戸時代前期の大名。前田利家の4男。初名は利光。慶長6年将軍徳川秀忠の娘子々姫(ねねひめ。のち珠姫)(3歳)と結婚。10年兄利長の隠居で加賀金沢藩主前田家3代となり、松平姓をゆるされる。寛永16年(1639)長男光高に家督をゆずり、次男利次を富山藩に、3男利治を大聖寺藩に分封(ぶんぽう)し、自らは小松に隠居した。5代藩主綱紀を後見し、農政改革のため改作法を実施。享年66。
(「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
※3 少進(下間 仲此カ)(しょうしん/しもつま なかこれカ)
「少進」《「しょうじん」とも》律令制で、大膳職(しき)・修理職(しゅりしき)・京職・中宮職・春宮坊(とうぐうぼう)などの判官(じょう)で、大進の下に位するもの。
(小学館「デジタル大辞泉」)
本願寺で「少進」といえば、坊官で下間三家(三家老)の一家である「下間(しもつま)少進」が立項されている。
「【下間少進(中孝/なかたか)】(1551~1616) 安土桃山時代・江戸初期の本願寺の坊官。能楽金春流の上手。金春岌蓮に師事し、その門には豊臣秀次をはじめ多くの貴族、大名が名を連ねた。石山合戦に活躍するなど政治家としての手腕も高く評価されている。著「能之留帳」「童舞抄」「金春岌蓮江問日記」など。 (「精選版 日本国語大辞典」)
しかし本史料と時代が合わないので、少進家を継いだ仲孝五男・中此の母は前田利家の弟・秀継の娘(岡田登貴「下間少進仲之の家系再考」『演劇学論叢』21号、2022年3月。『加賀藩史料』編外備考)であるので、その可能性が考えられよう。
【下間 中此】(1604~71) 江戸前期の浄土真宗本願寺派の家臣。諱は仲久、仲高、仲昌、仲三、仲盛、仲安。通称は源五、右近将監、少進、兵部卿。法名は乗及。幼名は源次。京都出身下間少進仲之(仲孝)の5男。1625年仲昌と名乗り、西本願寺と末寺の免物(本尊の掛軸)などを取り次ぐ奏者に就任する。35年法橋となり仲久と改名する。45年法眼に進む。56年法印となり仲安と改名。さらにのち仲此と改名。また若年の西本願寺14世寂如の後見役を勤める。父仲之の猿楽の才能を受け継ぎ、5歳の頃より能舞台に立った。
(『真宗人名辞典』法蔵館、1999年)
※4 勝興寺 良昌(しょうこうじ りょうしょう) 1625(寛永2)~1681(延宝8).4.2
現富山県高岡市伏木古国府の浄土真宗本願寺派・勝興寺14世(9世とも)住持(在位1646~81年)。諱は円周、法名は良昌。号は光昌院。西本願寺12世宗主准如の6男。同寺13世宗主良如の弟。1636年得度。勝興寺13世准教(昭見)の養子となる。1646(正保3)年4月16日に同寺に入寺し、法印・大僧都となる。同寺翌年9月、利常により同寺に寺領125石が加増された(計200石)。この頃、勝興寺の大広間(対面所)が建造された。1649年2月、利常養女つる(重臣神谷(横山)長治娘)。玉玲院広喜)を娶り、4男2女を設けた。この年、高岡鴨島町に勝興寺通坊(掛所、支坊)を設置した(現教恩寺)。またこの頃、勝興寺は越中の真宗を統括する「触頭」として藩のキリシタン禁制を指導している。承応年中(1654年頃)、京都興正寺が西本願寺派からの分派独立問題の際には、宗主で兄・良如の代理として幕府で理非を弁じて分派を留め、老中・寺社奉行らを感服させた。この時、幕府により由緒ある勝興寺の黒印地(前田家の認可)を朱印地(幕府の認可)への格上げが伝えられたが辞退した。1671年、表書院(松の間)と奥書院(金の間)を建造。またこの頃、下段の間・花鳥の間並びに式台(鉄砲の間とも)も建造するなど勝興寺の発展に尽力した。享年57。
(『雲龍山勝興寺系譜』荻原 樸編、塩田幸助発行、大正2年再版。『重要文化財勝興寺本堂落慶記念 勝興寺宝物 展図録』高岡市教委文化財課編、勝興寺等発行、平成17年。『雲龍山 勝興寺文書目録』(財)勝興寺文化財保存・活用事業団、平成24年)