五絶
ごぜつ
概要
山岡鉄舟の漢詩屏風である。高岡市太田(西田)の臨済宗国泰寺派大本山・摩頂山国泰寺の窮状を教うために鉄舟が大量に揮毫・奉納した、いわゆる「千双屏風」(注1)のうちと伝わる。西田に代々住まいする寄贈者の家に数代前から伝わる屏風だが、いつ、どのように入手したかは不明とのこと。
鉄舟は明治11年(1878)の北陸行幸の際、廃仏毀釈の煽りを受けて荒廃に苦しむ国泰寺の54世越叟義格と肝胆相照らす仲となり、「その後、山岡は国泰寺の復興に向けて一千二百双の屏風、掛け軸、額一万枚を揮毫し、加越能三国の有志に呼びかけるなど資金面で大いに支援した」という(注2)。
年代は明治12年とするもの(注3)や12年に200双、翌年に1,000双とするもの(注1)もあり判然としないが、注1・注3共に同14年2月に東京本郷の鱗祥院にて屏風千双の落成供養会を執行したとあるのでその下限が知られる。
鉄舟のこの壮挙は明治天皇にも伝わり、明治16年に宮内省と内務省からも支援を受けた。翌年没した越叟の跡を受け継いだ55世雪門玄松(西田幾多郎・鈴木大拙の師)の奔走により、天皇殿の再建(同22年)、三門の改築、神堂の再建(同26年)など徐々に復興を遂げた。
数ある屏風の内容は全て、中国唐代の禅僧・寒山の『寒山詩集』収録の五言律詩(5字×8句=40字)から、適宜8句選んで揮毫されている。本資料の内容は、右隻(左右の順は便宣的なもの)は注1高田氏論文(p53~54)の(二)と(四)、左隻は(三)と(七)の漢詩がそれぞれ第1~3扇と第4~6扇に書かれている。左右隻共、第1・4扇右上には関防(引首)印「屏風千双為需臨済宗/法灯派本山越中州国/泰寺五十四世越叟禅/師山岡鉄舟居士書」(朱文方印)、及び第3・6扇には落款「鉄舟居士書」と印章〔朱文方印「山岡鉄/太郎印」、白文方印「荷葉団々々/似鏡菱角/尖々々似錐」(注4)〕がみられる。
剣・禅のみならず、書にも優れた、鉄舟らしい雄渾かつ洒脱な草書体である。
鉄舟は同16年、東京谷中に自ら全生庵(国泰寺末寺)を建てた際、越叟を開基として迎え、また雪門にも熱心に参禅した。雪門は鉄舟の葬儀の導師となるなど、国泰寺と鉄舟の繋がりは深い。本資料は優れた美術作品のみならず、高岡市を代表する古刹・国泰寺の歴史を語る上では外すことはできない賞重な歴史資料ともいえよう。
※注
(1)高田長紀「山岡鉄舟千双屏風」(『氷見春秋 17号』昭和63年4月25日発行)
(2)劔 月峰『櫻散りぬ -ある小学唱歌教師一族の近代史』文芸社、2007年
(3)HP「山岡鉄舟研究会」(平成27年10月28日アクセス)
(4)「荷葉(かよう)団々として団(まど)かなること鏡に似たり、菱角(りょうかく)尖々(せんせん)として尖(するど)きこと錐に似たり」。神語。蓮の葉はまるまるとして鏡のように丸い。菱の葉は鋭くとがっていて、錐のようにとがっている。まるい蓮の葉も、鋭い菱の葉も、どちらも同じ池に浮いている。個性の違うもの同士でも、同じ池に住むという「縁」でつながっている、という意。(HP「茶席の禅語選」平成27年12月4日アクセス)
【参考】
〇山岡鉄舟 やまおか てっしゅう
1836-1888 幕末・明治時代の剣術家、官僚。
天保7年6月10日、幕臣小野高福の4男に生まれる。鎗術家山岡静山の妹と結婚、静山の跡をつぐ。剣を千葉周作にまなび、幕府講武所でおしえる。戊辰戦争では勝海舟の使者として西郷隆盛にあい、江戸開城のための勝-西郷会談の道をひらく。維新後は静岡藩権大参事、茨城県参事、明治天皇の侍従などを歴任。明治13年一刀正伝無刀流をたてる。海舟、高橋泥舟とともに幕末三舟と称された。明治21年7月19日死去。53歳。江戸出身。本姓は小野。名は高歩(たかゆき)。字は曠野、猛虎。通称は鉄太郎。別号に一楽斎。
【格言など】臨機応変の妙用は、無念無想の底より来る(西郷隆盛との会見についての述懐)
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus/平成27年11月28日アクセス)
○寒山 かんざん
生没年未詳 中国、唐代の僧。
拾得とともに天台山国清寺を訪れ、豊干に師事。三者を三隠と称した。文殊菩薩の化身とされる。禅画の「寒山拾得図」や「四睡図」に描かれる。詩集「寒山詩」3巻。
(デジタル大辞泉/平成27年11月28日アクセス)
〇越叟義格 えっそうぎかく
1837-1884 幕末-明治時代の僧。
天保8年5月3日生まれ。臨済宗。文久3年京都相国寺の越渓守謙に師事し、その法をつぐ。明治7年国泰寺(富山県高岡市)の住持となり、山岡鉄舟の援助で同寺を法灯派の本山とする。東京谷中に全生庵をひらいた。明治17年6月18日死去。48歳。筑前(福岡県)出身。俗姓は松尾。
(デジタル版 日本人名大群典+PIus/平成27年11月28日アクセス)
〇雪門玄松 せつもんげんしょう
1850-1915 明治・大正時代の僧。
和歌山市の豪商の跡取りだったが、時代の流れと当主の遊興が過ぎて家業が傾き、後を次男に任せ出家。その寺も台風で壊れ、後に京都相国寺・荻野独園(大教院長、禅宗初代管長)に師事し印可を得る。その後、実家の支援で中国に3年遊学。帰国後の明治16年、国泰寺55世管長に就任。山岡鉄舟の軸を担いで勧募に歩き、荒廃した伽藍の修復に奔走した。同21年の鉄舟没時には本葬儀の導師とし儀式を主宰。また若き日の西田幾多郎や鈴木大拙が雪門に参禅した。明治26年、禅堂再建を落成させると、突如国泰寺を退山し、草庵に引き籠もり在家禅を唱導。その後実家の鉱山経営のために還俗するも、慣れない事業経営に失敗。再度禅僧に戻り、若狭の曹洞宗の寺を寓居として、村おこしを手伝うなど乞食僧として活動するも、腹膜炎を患い66歳で没した。その生涯は小説、水上勉『破鞋(はあい)-雪門玄松の生涯』(岩波書店、1986年)に克明に描かれた。
(高田長紀「山岡鉄舟千双屏風」『氷見春秋 17号』 昭和63年4月25日発行、
備後國分寺ブログ「住職のひとりごと」内、2007年1月6日記事)
〇国泰寺 こくたいじ
高岡市太田にある臨済宗寺院。臨済宗国泰寺派の本山。山号は摩頂山。開創は1328年(嘉暦3)。開山は慈雲妙意で後醍醐天皇から清泉禅師の号をうけ,また光明天皇から慧日聖光国師と諡号を贈られる。慈雲妙意は信濃(現長野県)で生まれ,越後五智院で得度。関東壇林で修行し,北陸の曹洞禅に参ずる途中二上山に留まり,1296年(永仁4)に小竹弘源寺の地に草庵を構えたという。ここを訪れた孤峰覚明の教えにより,紀伊国(現和歌山県)由良興国寺の無本覚心を訪れて印記をうけ,その死後は孤峰の弟子となり,99年(正安1)に二上山に帰り東松寺を開く。1302年(乾元 1)には国泰寺と改称し,伽藍を整備。寺伝では27年に後醍醐天皇の勅を奉じて寺を建立し,28年に護国摩頂巨山国泰万年禅寺の勅額と勅願所所の綸旨を賜ったという。同寺蔵「清泉妙意禅師行録」には,同寺が39年(暦応2)に足利尊氏によって越中安国寺に充てられたともいわれるが疑問である。同じく法灯派の興化寺が足利政権と結び付くことで五山建仁寺系の出世寺となったのに対し,国泰寺は南朝系とのかかわりが深い孤峰の影響下にあったことや,修行を重視する林下的性格をもっていたため,室町期には世に現れることが少なかったようである。
19世大梅妙奇のころ,神通川上流高原川沿いの現岐阜県上宝村一帯に国泰寺の教化が進められた。本郷本覚寺・長倉桂峰寺・赤桶寺・田頃家永昌寺・一重ケ根禅通寺・福地新福寺などである。永昌寺の場合,1435年(永享7)以前に大梅の弟子鳳宿麟芳が同寺の中興にあたる。南北朝~室町前期には山間土豪層への教化活動は見られるものの,基盤の不安定さをのぞかせていた。戦国期以後には再興神保氏と歩調を合わせるように隆盛に向かい,1546年(天文15)には27世雪庭祝陽が後奈良天皇から綸旨(りんじ)をうけ,紫衣を勅許される。天正年間(1573~92)には二上山山上から現在地に移り,加賀藩主前田氏の帰依が篤かった。だが飛騨の末寺群は金森氏の菩提所である高山の妙心寺派宗猷寺末に組み込
まれ,国泰寺自体も1633年(寛永10)「諸宗末寺帳」段階で妙心寺末となる。この後,法灯派勅願寺院として越中および加賀の臨済宗寺院の多くを門末に加えた。1708年(宝永5)には5代将軍網吉から法灯派総本山に認められる。
38世別伝は正徳年間(1711~16),加越能3国に寄進を募り,21年(亭保6)法堂・祖堂・庫裡・僧坊などを新築。1876年(明治9)に臨済宗諸派が分立した際には相国寺派に属した。78年秋,明治天星巡幸に従った山岡鉄舟は国泰寺を訪ね,54世越叟義格と協力して,明治維新以来困窮していた同寺の財政を助け,天皇殿の再建と三門の改築に努めた。越叟は明治政府教部省大教院長荻野独園(相国寺126世)の協力者でもあった。国泰寺においてはじめて白隠系の宗風を揚げた。55世雪門玄松は近代日本の代表的思想家である西田幾太(「多」の誤記)郎や鈴木大拙に多大の影響を与えた禅僧として著名(水上勉著『破鞋』)。1905年(明治38)には相国寺派から分離独立して臨済宗国泰寺派を称した。41年(昭和16)には一時他派と合同したが,第2次世界大戦後には元に戻り,52年には国泰寺派として宗教法人の認証を受けて独立。現在末寺35カ寺を擁する。開山忌は6月2,3日。法灯派本山でもあるため妙音会と称して虚無僧が数十人集まり,尺八を吹奏する。⇔稲葉心田,安国寺利生塔(久保尚文)
(「富山大百科事典 電子版」/平成27年11月28日アクセス)