五絶
ごぜつ
概要
幕末“三舟”の一人で、禅・書に優れた山岡鉄舟が、高岡市西田の臨済宗国泰寺派大本山・摩頂山国泰寺の窮状を救うため、大量に揮毫・奉納した「国泰寺千双屏風」の一つ。
左隻には、中国の唐時代の詩集『寒山詩』(全314首)のうち、128番(第一~三扇)と4番(第四~六扇)の詩が書かれる。
国泰寺千双屏風とは、山岡鉄舟が明治11年(1878)の北陸行幸に随行した際、国泰寺54世・越叟義格と親しくなり、廃仏毀釈などで窮乏を嘆く越叟のために鉄舟が揮毫・奉納した屏風類である。
国泰寺ではその後、越叟や、55世雪門玄松(西田幾多郎・鈴木大拙の師)がこの屏風を売り歩くなどの奔走により、明治26年(1893)までに天皇殿の再建、三門の改築、禅堂の再建など徐々に伽藍の復興を遂げることができた。
剣・禅と共に、書にも優れた山岡鉄舟らしい雄渾かつ洒脱な書体で書かれているこの屏風は、優れた美術作品のみならず、高岡市を代表する古刹・国泰寺の歴史を語る上では外すことができない貴重な歴史資料でもある(参考:高田長紀「山岡鉄舟千双屏風」『氷見春秋』17号、昭和63年4月)
山岡鉄舟は,幕末維新期の政治家。名は高歩、通称は鉄太郎。勝海舟・高橋泥舟と共に、幕末‘三舟'の一人。旗本小野朝右衛門と磯の子として江戸に生まれた。剣を北辰一刀流千葉周作に、槍を刃心流山岡静山に学び、山岡家を継ぐ。高橋泥舟の義弟。
安政3年(1856)に講武所剣術世話心得、文久2年(1862)に浪士組取締役を拝命。明治元年(1868)、精鋭隊頭となり徳川慶喜の警護に当たる。その直々の命により西郷隆盛を駿府に訪い,勝海舟との会談を周旋し、徳川家救済と江戸開城に力を尽くした。彰義隊にも新政府への恭順を説いたが容れられなかった。
維新後は静岡藩権大参事、伊万里県知事などを歴任。同5年侍従となり、同14年には宮内少輔に進む。53歳で病没。東京谷中に自ら創建した禅寺全生庵に眠る。剣客との名があるとおり武骨ではあるが、将軍慶喜・明治天皇のいずれに対しても意気に感じて誠実をもって応えた人である(HP「朝日日本歴史人物事典」朝日新聞出版、1994年/2018年9月19日アクセス)