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「朝日新聞(高岡)」号外(昭和33年5月23日付)

あさひしんぶん(たかおか)ごうがい

概要

「朝日新聞(高岡)」号外(昭和33年5月23日付)

あさひしんぶん(たかおか)ごうがい

その他 / 昭和以降 / 富山県

発行所:朝日新聞大阪本社

あさひしんぶんおおさかほんしゃ

富山県高岡市

昭和33年5月23日付/1958年

紙・モノクロ印刷

縦18.2cm×横25.7cm

1枚

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-03-168

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

朝日新聞(高岡版)の号外である。昭和33年(1958)5月22日に行われた、第28回衆議院議員総選挙の結果速報である。同30年(1955)10月の社会党再統一と同年11月の保守合同により、保守の自由民主党と革新の日本社会党が対置される二大政党制、55年体制が出現してから初めての総選挙であった。投票率は76.99%であり、男女普通選挙となってからでは最高の記録であり、平成24年現在も破られていない。このことは、二大政党選挙への関心の高さを窺わせる結果であった。結果は自由民主党 当選287(議席率61.5%)、日本社会党 166(35.5)であった。
見出しに「三鍋、内藤、鍛冶 一区/松村、正力、佐野 二区」とある。富山県も上記の中選挙区制の当時(1947~1993年)、高岡市は第2区に含まれていた(区域は現行の富山県第3区と同じ)。一区、二区ともに定数三人で、二区の当選結果は以下の通りである。
「当選 六九、五五九 票 松 村 謙 三 自前
当選 六五、〇七九 票 正 力 松太郎 自前
当選 五四、七六三 票 佐 野 賢 治 社新」
富山県も上記の世相を反映し、一区、二区共に自民党2:社会党1という結果を示した。
   
【松村 謙三】(まつむら けんぞう)1883・1・24~1971・8・21(明治16~昭和46)
政治家。砺波郡福光新町村(現南砺市福光)で,薬種商松村和一郎と,つやの長男として生まれる。1906年(明治39)早稲田大学政治経済科を卒業し,報知新聞社入社。13年父が死亡し,郷里に帰って家業を継ぐ。17年(大正6)福光町会議員に当選し,政治家として歩み始める。21年と25年にも同町議に当選。この間,19年には富山県会議員に当選し,県立砺波高等女学校(現となみ野高等学校)の創設に尽くした。28年(昭和3)衆議院議員に当選。以後13回連続当選し,戦後の公職追放の期間を除いて35年の長きにわたって国政に尽力する。45年8月東久邇内閣の厚生大臣兼文部大臣。同年10月幣原内閣の農林大臣。55年3月鳩山内閣の文部大臣に就任。また53年6月には改進党幹事長となる。59年1月,自由民主党総裁公選に立候補し,岸信介首相に敗れたが,清廉潔白な政治姿勢は166票を獲得して善戦する。
農林大臣時代に農地改革を行う。大学の卒業論文に「日本農業恐慌論」を書いたように,早くから農業に関心をもち,45年10月9日の農相就任記者会見で農地改革に着手する考えを表明。4日後には第1次農地改革農政局案を作成した。この案では地主の持つ土地は1町5反だったが,地主の反対が強く,事務局案は3町歩に拡大され,閣議では5町歩と骨抜きにされた。しかし当時の連合国軍総司令部の命令は絶対的で5町歩案は差し戻され,1町歩案で第2次農地改革案を勧告される。これが「自作農創設特別措置法」「農地調整法」の2本立てで成立。松村自身20町歩を持つ地主だったが,率先して農地を開放した。また食糧難の時代に国民の食糧を確保するため関東近辺を行脚。
晩年は日中国交回復に政治生命をかけた。55年に来日中の郭沫若(かくまつじゃく),57年には来日中の廖承志(りょうしょうし)と会って中国に関心をもち,59年周恩来首相に招かれて訪中。自力更正を実践して発展する姿を目のあたりにし,中国の重要課題である農業問題に日本が協力することが友好につながると考える。やがて貿易交渉はLT貿易として実を結ぶ。しかし台湾との関係を重視する佐藤栄作内閣のもとで日中関係は悪化するばかりで,両国の改善を図るため87歳の高齢をいとわず,70年には5回目の訪中を果たす。この時は中国側が態度を硬化させ失意のうちに帰国するが,亡くなったのちの72年に国交が樹立する。松村の先駆的な努力が実る。また南砺市(福光)刀利ダムの建設は松村の力によるところが大きい。小矢部川流域の住民は洪水や干ばつに悩まされていたため,刀利ダム建設計画が持ち上がると,松村は水没に反対する農民を説得。村民は松村の人格を信じ,建設を一任して完成を見た。今も下流の安全が保たれ,松村が郷里に残した貴重な遺産となっている。71年化膿性胆管炎と胆石症のため死去。享年88歳。参考:松村謙三『三代回顧録』(1964年9月,東洋経済新報社),松村正直ほか編『花好月圓』(1977年8月,松村正直),遠藤和子『松村謙三』(1975年9月,KNB興産出版部),松村謙三生誕百年記念実行委員会編『松村謙三先生を偲んで』(1983年12月,福光町役場)。〈太田久夫〉

【正力 松太郎】(しょうりき まつたろう)1885・4・11~1969・10・9(明治18~昭和44)
政治家・実業家。射水郡枇杷首村(現射水市)(大門)に生まれる。旧制高岡中学4年のときストライキに参加。旧制四高時代は柔道部で活躍した。1911年(明治44)東京帝国大学卒業。西園寺内閣書記官長で同郷の南弘の勧めで警視庁へ入り,東京の治安と警備に当たる。18年(大正7)米騒動が起こり,鎮圧に出動して重傷を負った。23年議会の開院式に臨んだ皇太子の御召自動車が,帰路虎の門付近で難波大助という左翼青年に発砲されたいわゆる〈虎の門事件〉で,警備の責任者だった正力は辞任する。24年2月読売新聞社長に就任。紙面の刷新や強力な経営手腕を発揮して,世界有数の大新聞の基礎を築く。プロ野球を始めたのも正力である。実業家の小林一三が試みて失敗したが,34年(昭和9)日本最初のプロ球団大日本東京野球倶楽部(現読売巨人軍)を創設,ベーブ・ルース一行を招き日米野球試合を行う。49年には初のプロ野球コミッショナーに就任するとともに,日本野球連盟会長としてプロ野球の振興に尽くした。
52年日本初の民放テレビ放送の予備免許を受け,日本テレビ放送網株式会社が発足し,社長に就任。当時,外国のテレビ会社でも黒字のところはなく,10億円の資本に20億円の借入金で事業を興そうとして不安がられた。正力は〈絶対1年で黒字にしてみせる〉と豪語,人の集まるところに街頭テレビを設置し,スポンサーを集めて黒字決算を生み出した。44年貴族院議員に勅選されたこともあるが,55年2月富山2区から衆議院議員選挙に立候補し,連続5回当選。民主党と自由党の保守合同を側面から推進した。初当選の秋には第3次鳩山内閣の国務大臣として入閣し,首相を説いて原子力委員会を組織,初代の原子力委員会委員長となる。55年5月科学技術庁長官に就任し,茨城県東海村の原子力研究所・原子力産業会議を創設。日本の原子力平和利用の基礎を築く。戦前は,全国各地の新聞社の会長を兼任。45年12月には戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収容され(1947年釈放),46年1月には公職追放(1951年解除)された。49年には関東レース倶楽部(現よみうりランド)会長。54年読売新聞社・大阪読売新聞社の社主に就任。信仰に厚く,全日本青少年教化協議会顧問会長・全日本仏教会顧問なども兼ねた。62年日本武道館の会長に就任。同館正面の額〈武道館〉は正力が揮毫した。享年84歳。69年北日本新聞文化賞受賞。参考:読売新聞社『正力松太郎』(1971年10月),大宅壮一編『正力松太郎悪戦苦闘』(1952年11月,早川書房),御手洗辰雄『伝記正力松太郎』(1955年6月,講談社),片柳忠男『創意の人正力松太郎言行録』(1964年5月,オリオン社)。〈太田久夫〉

※参考文献
・(公財)明るい選挙推進協会ウェブサイト(http://www.akaruisenkyo.or.jp/070various/071syugi/)
・石川真澄『戦後政治史 新版』岩波新書、<データ>国会議員選挙の結果
・『富山大百科事典』(1991年、北日本新聞)

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