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「週刊 市民新聞」37号

しゅうかん しみんしんぶん さんじゅうななごう

概要

「週刊 市民新聞」37号

しゅうかん しみんしんぶん さんじゅうななごう

その他 / 昭和以降 / 富山県

高岡市民新聞社(島 知一)  (1911~2006)

たかおかしみんしんぶんしゃ しまともかず

富山県高岡市

昭和26年5月20日/1951

紙・印刷

縦37.8cm×横26.7cm(タブロイド判)

1部

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-03-100

高岡市(高岡市立博物館保管)

 高岡市民新聞社(島 知一氏(※1)編集)の「週刊市民新聞」37号である。本紙は昭和25~平成5年(1950~1993)の長きにわたり発行し続けられたタブロイド判の新聞である。1部4頁とはいえ、高岡の政治・経済・文化にわたる幅広い内容をもつ。本資料はそのうち、本紙創刊翌年の昭和26年(1951)5月20日発行(37号)であり、他図書館等に所蔵は確認できない新発見といえるものである(当館「岡本家文書」(1-01-184)内には同34年(1959)の411号(1月11日)から429号(5月24日)の19部がある)。高岡市立中央図書館に昭和33年1月1日(新春361・362合併号)から平成5年(9月26日)分までが所蔵されている。また、国立国会図書館でも447号(昭和34年10月11日)から2076号(平成5年9月26日)までしか所蔵されていない。
 さて、新聞そのものについてだが、いずれも非常に質の悪い紙であり、周囲は小さな破れなどがみられる。3面に「市警善行青少年を表彰/環境を克服して勉励」の記事中に「高岡市渡り工芸高校/一年狩野 勉君/家庭ではよく弟妹の世話をし家事を扶けまた自ら少年夜警隊を組織、進んでその任に当り町民より感謝されている。」とあるので、寄贈者が自分が掲載されている記事を保存していたものと思われる(寄贈は娘さんから)
 肝心のタイトル部分が残念ながら切り取られているが、開催中の高岡産業博覧会(1951年4月5日~5月25日)について「産博景気を探る/儲け頭は果してどこか」、「大名行列を高岡博協賛会」、「不評の“産博記念ひかり”/だが品質は落ちていない」(記念煙草の銘柄。当館蔵/仁ヶ竹注)、「高岡博はあと五日/特賞五十万円幸運の主はまだ」などの記事がある。
 他の内容としては「来月中に大巾の追放解除/元市長堀健治氏らも復活か」というのはいわゆる「公職追放」(※2)がこの年に順次解除されていっている時代の一端を示す。同様に「公傷者の待遇向上を/一傷痍者から請願運動」というのも終戦直後という世相がうかがえる。
 他は先に発見されたものと同様、政治・経済・文化的に幅広いものがある。映画欄、出生・死亡欄や求人欄などがあり、高岡市内の各種広告も目を引く。
 しかし、先のものにはなかった四コママンガ「市民の新ちゃん」(カツノヤ太郎)がある。ちなみに、同年1月1日の新春号には藤子不二雄の二人のそれぞれの投稿マンガも掲載されていたことが、この新聞の編集者・島知一著『高岡外史実録 私の見た戦後の高岡諸相』(私家版、平成7年)p108に紹介されている。これは公式な資料(※3)には記載がないマンガで、その現物の発見が望まれる。

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【注】
※1.島 知一(1911~2006)・・・金沢市生まれ。昭和7年(1932)、兄が主宰する通信社に入り、同10年名古屋新聞(現中日新聞)高岡支局の記者となる。兵役を経て昭和25年、当時の高岡市長・南慎一郎の勧めもあり、高岡市御旅屋町(桐木町)に高岡市民新聞社を設立(社長は開進堂社長・山崎政次郎、専務は金森喜八郎眼鏡商社長)。同年9月から発刊し、平成5年9月26日の2076号まで43年の長きにわたり発刊し続けられた。
 また、昭和26~38年にはNHK富山放送局初代高岡通信員も務めた。
 毎日市役所や商工会議所を回って記事を書きあつめる。高岡の政治経済に精通し、高岡の「生き字引」ともいわれた。記事の抜粋を平成7年に『高岡外史実録 戦後の高岡諸相』にまとめた。
 昭和62年、厚生大臣表彰(富山県民生児童委員を同38~61年まで8期24年務めたことによる)。平成18年5月5日没(享年94)。
(島 知一『高岡外史実録 私の見た 戦後の高岡諸相』平成7年、私家版
/北日本新聞「追想ありし日」平成18年7月23日付)

※2.公職追放・・・俗にパージとも。1946年1月4日のGHQ覚書を契機として行われた戦争責任者、国家主義団体幹部などの戦争協力者の公職からの罷免および排除。〈日本人民を戦争に導いた軍国主義者の権力および影響力を永遠に除去する〉というポツダム宣言の精神に基づいて行われたもので、1947年1月4日の勅令で〈公職〉の範囲は広がり、追放は地方政界、財界、言論界に拡大され、1948年5月までに追放者は20万名を超えた。しかし1951年11月までに17万5000余名が解除。サンフランシスコ講和条約の発効に伴う追放令の廃止で全員解除。
(HP「百科事典マイペディア」平凡社、2021年8月12日アクセス)

※3.『藤子・F・不二雄の世界』(藤子プロ、2003年2刷(1998年初版))p4

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