元版一切経 附 黄檗版一切経 経箱〈至正七年七月吉日施入銘〉
げんぱんいっさいきょう つけたり おうばくはんいっさいきょう きょうばこ
概要
本一切経は、元代の普寧寺版四〇五八帖を主体とし、その欠を補うため様々な版本や書写本が含まれる。宋・元の版経には普寧寺版のほか南宋・紹興版が五六帖、思渓版が三帖ある。和版では、江戸時代に我が国で開板された黄檗版八一八帖が最大数を占めており、これらは享保十八年(一七三三)に補われたものである。ほかに春日版三帖、東福寺版三二帖(至徳版一二帖、寛永版一〇帖)がある。
普寧寺版は、元軍の兵火により湖州の思渓版一切経の板本が焼失した後、白雲宗総本山普寧寺で至元十四年(一二七七)に開板事業が着手されたもので、至元二十七年に杭州、嘉興、湖州等に住む白雲宗の僧侶や信者からの喜捨を得て開板された。本一切経は、巻末の施入記から、至正七年(一三四七)に曄孫が妻の慧照とともに祖先追善などを願って慶元路鄞縣陽堂郷に世忠寺を建て、普寧寺版一切経全蔵を新たに印造して納めたものであることが知られる。元代の経箱の蓋表には「四明東吴賓華山/世忠寺大蔵経函」、身には「至正七年丁亥/歳七月吉日施」という墨書がある。これらから、経箱が曄孫による経典の施入時に新造されたことがわかる。
日向国・大慈寺二世の剛仲玄柔は、元から一切経二組を求めた。このうち世忠寺にあった一組を永和三年(一三七七)に東福寺へ寄進したものが本経である。多くの経典に「永和三年丁巳七月六日玄柔捨」や「日州大慈剛中玄柔捨」の墨印が捺されている。なお、玄柔は嘉慶元年(一三八七)には東福寺五四世となり、翌年には東福寺内に即宗庵を開創して退去し、入滅した。
本経は、永和三年に東福寺に施入された普寧寺版を主体をするもので、印造やその後の伝来経緯が明らかであり、我が国の仏教史、日中文化交流史研究上、極めて価値が高い。
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