藤原俊成自筆消息案
ふじわらのとしなりじひつしょうそくあん
概要
九条兼実の日記『玉葉』によれば、文治元年(1185)11月、藤原定家(1160~1241)は、豊明の宴の御前試夜において源雅行の嘲笑に激怒し、紙燭で雅行を打つという事件をおこして殿上人を除籍された。この除籍は年内には解かれず、翌春になっても許されないままであった。このことを嘆いた定家の父、俊成(1114~1204、安元2年(1176)に出家し、法名釈阿)は、「あしたづの雲路まよひし年暮れて霞をさへやへだてはつべき」(『千載和歌集』)と詠み、後白河院への奏聞を願って、院の近臣で伝奏をつとめる左少弁藤原定長(?~1202、法名寂蓮)にこの消息を送った。俊成の訴えは認められて、定家は間もなく殿上人に復し、摂政九条兼実に近侍するようになった。
この消息は、俊成自らが控えとして写したものである。和歌の2行目と3行目の間に折り跡があり、定家の日記『明月記』に取り込まれたものが、後世になって取り出され、懸幅に仕立てられたものと考えられる。
現在は、冷泉中将殿添状1通・風早宰相殿外題1通・千載集(該当部分)1通・消息考1通・點字1通を合わせた「俊成卿歌入消息添状一巻」、昭和戊辰年(3年)5月の、姫路酒井家よりの譲状、及び朱漆塗の収納筒とともに伝えられている。
俊成と定長の歌の遣り取りは、さきに触れたように、俊成も撰者の一人となった『千載和歌集』巻第17 雑歌中に収められている(1158・1159)ほか、『古今著聞集』巻第5(和歌第6)や『十訓抄』第10ノ36にも載せられている。また、和歌の冒頭部分をとって「あしたづの文」と呼ばれているこの消息も、子を思う親の心情を吐露したものとして著名なものである。このような文学的な価値に加えて、近年、冷泉家時雨亭文庫の調査研究と相まって、藤原定家や『明月記』に関わる史料研究も大きく進んだことから、この消息は史料的な位置づけもより確かなものとなる。