四国西国順拝記
しこくさいごくじゅんぱいき
概要
京都の商人升屋徳兵衛が、文化6(1809)年に四国遍路と西国巡礼に加え、讃岐金毘羅、安芸厳島、伊勢神宮を巡った際の道中日記。第1巻が四国遍路の案内記、第2巻が西国巡礼の案内記、第3巻が2月29日から6月22日にかけての道中日記、第4巻が納経帳である。旅に出たのは徳兵衛、その子ども弥四郎、弥四郎の妻せむ、荷物運搬人の4人。原因不明の病気になった弥四郎の平癒を祈願しての旅だった。
四国遍路の部分には、交通事情をはじめ、旅先の食事や宿について細かく記録されている。10番札所切幡寺から12番札所焼山寺の坂道を「阿州第一の高山巌石けわしき嶮岨」と表現している。21番札所太龍寺へ向かう道すがら、狼に襲われたのか亡くなった遍路も目撃している。増水した逆瀬川では、徳兵衛の腰帯につかまりながら渡っていたせむが、つまずいて流されそうになるハプニングも起きている。
道中の食事は、翌日の朝食や昼食分も含めて3食分のお米を夕方にまとめて炊いている。副食については、保存がきく空豆・切り干し大根が多く、接待でもらった漬け物などで、旅先での乏しい食事を補っている。主要な街道と比べると、宿は劣悪な環境のところが多く、ほとんどが筵敷きで、畳があっても古畳か墨が塗られたように汚れた畳であったという。布団がない宿では、厚紙に柿渋を塗り何度も揉んで柔らかくした紙衾にくるまり寝ることもあった。
道中日記からは、四国遍路の厳しさばかりが浮かび上がるが、一行の中に女性がいたことで、ほほえましい場面も記されている。接待をする地元女性が、せむのことを京都の女性と知り、その着ている青梅色の縞の袷を洗練していると褒めているところなど、一例として挙げられる。遍路が一種の異文化交流の旅であったことが伝わってくる。
所蔵館のウェブサイトで見る
愛媛県歴史文化博物館